と融合しようとした例外的な作品も存在する。それは1933年12月に開かれた木村伊兵衛の個展「ライカによる文藝家肖像写真展」で発表された、肖像写真の連作である。筆者は以前この連作について、スタジオという人工的環境でいかにして被写体にカメラを意識させずに撮影することができるかを試みたという点で、「自然さと不自然さの緊張関係」によって特徴づけられた作品であることを指摘した(注23)。しかし今回の調査研究の結果、木村の《文藝家肖像》の日本の写真史における意義を考えるうえで、レルスキーが与えた影響も無視できないことがわかった。『アサヒカメラ』1934年1月号に掲載された《文藝家肖像》の10点の写真〔図6、7〕のうち、8点は顔が構図の縦幅の半分以上を占めている。『フォトタイムス』1930年7月号に、ニコラ・ペルシャイト(レルスキーが紹介される以前に肖像写真のジャンルで日本でもっとも影響を与えた写真家のひとり)の作品と並んで掲載された木村の《金子四郎君像》〔図8〕と比較すれば、このフレーミングが意図的なものであることは明らかである。大判カメラを使用したレルスキーとは異なり、木村は35ミリフィルムを用いるライカで撮影したため、レルスキーの肖像写真を特徴づけている肌の質感描写は《文藝家肖像》には見られない。またレルスキーの被写体の多くが口を真一文字に結んで、じっとしているのに対して、木村の被写体は煙草を吸ったり、歯を見せて笑ったりと何かの動作の最中にある。だが、被写体の顔の真横、またはわずか下方からカメラを向けている点、被写体の眼差しがカメラの方向からは斜め45度ほど逸らされている点などは、上で言及した田村や野島の作品以上に、レルスキーの様式を忠実に再現している。《文藝家肖像》が1930年代半ばの日本写真史の肖像写真の作例としてとりわけ興味深いのは、一般的には相反するものとみなされていた、ザロモン的な人物写真とレルスキー的な人物写真の両方の要素が、ひとつの連作に共存している点にある。だが、そのような共存がそもそも可能になったのは、両者には前節で述べたような共通点があったからである。すなわち、両者はともに、被写体自身が知らない姿を写し出そうとする表現であり、そのように同じ方向にベクトル付けされていたからこそ、組み合わせることでその効果を倍加させることができたのである。結論本研究では、ヘルマー・レルスキーの写真集『日常の顔』が日本でどのように受容され、写真家たちにどのような影響を与えたのかを検討し、以下のことを明らかにした。肖像写真の新たな表現としてレルスキーの作品は盛んに参照され、模倣されたが、― 59 ―― 59 ―
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