鹿島美術研究 年報第34号別冊(2017)
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注⑴欧米のモダン・フォトグラフィーの日本における受容についての最近の主な研究として以下を参照。高橋千晶「「モダン・フォトグラフィ」受容の重層性」─『フォトタイムス』誌に見る言説空間と写真実践─」『京都精華大学紀要』第38号、2011年、71-94頁。江口みなみ「一九三〇年代初頭における展示デザイン─ドイツ工作連盟主催「映画と写真」展の日本巡回を中心として─」『美学』241号、2012年12月、73-84頁。ただし、いずれも肖像写真というジャンルについて特に論じたものではない。小型カメラによる「自然な」スナップの人気が高まると、次第に時代遅れの表現とみなされるようになった。だが、木村伊兵衛の《文藝家肖像》のように、『日常の顔』の様式をスナップ的表現と組み合わせることで、表面的な模倣以上の受容がなされることもあった。その一方で、無名の労働者の顔という主題については、その重要性は日本の批評家たちに認識されつつも、『日常の顔』に匹敵する試みが戦前の日本で生み出されることはなかった。様式の点では斬新であった《文藝家肖像》も、その被写体の選択は、非凡な個性の持ち主としての芸術家の肖像写真の連作という、19世紀のナダール以来、繰り返し試みられてきた主題の類型を踏襲したものにすぎない。1934年の日本の政治状況では、プロレタリア階級を主題にした写真集を出版することはすでに困難になっていた。それはナチ党が権力を掌握していた同時期のドイツでも同様であった。ユダヤ人であったレルスキーは1932年にすでにベルリンを去り、パレスチナに移住していた。その意味で木村の《文藝家肖像》は革新的であると同時に保守的な肖像表現であり、1930年代の日本の写真芸術の成熟を示すと同時に、その先に待ち受けていた苦難の道のり─国策プロパガンダへの全面的加担─を暗示していた作品と言えるのである。⑵最近では光田由里が野島康三の作品に対するレルスキーの影響を指摘している。以下を参照。光田由里「野島康三 写真の存在論」、アイヴァン・ヴァルタニアン、和田京子編『野島康三写真集』赤々舎、2009年、153-181頁。⑶レルスキーの経歴については、2002年にフォルクヴァンク美術館で開かれたレルスキー展のカタログにもっとも詳細な記述がある。Florian Ebner, Metamorphosen des Gesichts: “DieVerwandlungen durch Licht” von Helmar Lerski (Göttingen: Steidl, 2002).⑷同展の出品作一覧は以下を参照。「日本で初めて公開される独逸国際移動写真展」『アサヒカメラ』1931年3月、316-317頁。同展については注⑴の江口の論考が詳しく分析している。⑸糟谷霧川「人像写真の一新派」『フォトタイムス』1931年5月、93頁。(原文の旧漢字は新漢字に直した。以下同じ。)⑹糟谷の文章では同記事の出典は示されていないが、同記事を引用している堀野正雄の1932年1月の文章「エリッヒ・サロモン博士の写真」(『フォトタイムス』1932年1月、103-120頁)によれば、「スタルケ氏」とは、Herbert Starkeのことであり、その出典は“Neusachliche Wege in der― 60 ―― 60 ―

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