⑦■飾北斎画『新編水滸画伝』の研究研 究 者:すみだ北斎美術館 学芸員 山 際 真 穂江戸時代後期に活躍した浮世絵師葛飾北斎(1760~1849)は、文化年間(1804~18)に入ると精力的に読本挿絵を制作し、その代表作に『新編水滸画伝』があげられる。本作は、水滸伝の流行を背景に、文化2年に版元の前川弥兵衛・角丸屋甚助が、曲亭馬琴による『水滸伝』の翻訳を企画したことに端を発するが、版元と馬琴のトラブルにより初編の出版をもって制作が中断する。12年の休止期間の後、版元の英平吉が高井蘭山を翻訳者として出版を再開し、二編から九編の刊行をもって完結した。美術史においては、巻之一「伏ふくまのでんやふれ魔殿壊て百八の悪あく星せい世よに出いづ(注1)」図〔図1〕におけるセピア色の使用や、閃光の表現への銅版画の影響(注2)は、以前から耳目を集めてきた。また、本作品の典拠としては、鳥山石燕画『水滸画潜覧』、北尾重政画『梁山一歩談』・『天剛垂楊柳』、容与堂刊『李卓吾先生批評忠義水滸伝』、陳洪綬『水滸葉子』が指摘されている(注3)。さらに、筆者馬琴の所蔵書籍や(注4)日本に招来された水滸伝の研究も行われている(注5)。本論では、これらをふまえながら和漢の水滸伝の絵と本作を比較し、新たな典拠の発見を目指す。はじめに、水滸伝の日本における受容の歴史を概観する。明代中国で成立した『水滸伝』は、当初国内では原書が稀覯本として流通し、主に唐話学習や研究材料に用いられていた。需要の拡大に伴い、享保13年(1728)に初の水滸伝の和刻本『忠義水滸伝』が刊行され、享保(1716~35)から宝暦期(1751~64)にかけて水滸伝研究が盛んになった。宝暦7年に初の日本語翻訳本の岡島冠山作『通俗忠義水滸伝』が刊行されると、受容層は一般読者にまで広がり、明和5年(1768)には、北壺游作の初の翻案物『湘中八雄伝』が刊行された。その後、安永2年(1773)には建部綾足作の翻案物の『本朝水滸伝』、さらに、同6年には国内初の水滸伝の絵本『水滸画潜覧』が刊行された。その後も寛政元年(1789)に山東京伝作の翻案物『通気粋滸伝』、同3年に同じく山東京伝作の水滸伝の絵本『梁山一歩談』・『天剛垂楊柳』(注6)、同8年に曲亭馬琴作の『高尾船字文』、同11年に山東京伝作の『忠臣水滸伝』などの翻案物が刊行されるなど、水滸伝に関する書物が続々と刊行され、その人気は大変な高まりをみせていた。そのような状況下で、『新編水滸画伝』は制作された。本書成立の背景は、冒頭の馬琴の言葉「訳すいこを水やくする滸弁べん」に記されている。ここからは、鳥山石燕の『水滸画潜覧』は、「粗そろう漏」なため、新たに馬琴の訳文で『水滸画潜覧』に基づき、より詳細な内容の水滸伝の絵本を出版したいという版元の意向が読み取れ― 64 ―― 64 ―
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