鹿島美術研究 年報第34号別冊(2017)
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殿をあばいた際には黒気が立ち昇ったという記述がなされているのに対して、後者では黒気が立ち昇った後金光と変じたという記述があるため、金光の中に妖魔を描いたのではないだろうか。このセピア色の筋は、「金光」の表現だと考えられる。さらに、銅版画風の黒い線をセピア色の上に重ねて描くことで、閃光の表現が動的になされている。本図には、背景表現や逃げ惑う人々が細密に描かれているため、銅版画風の線を妖魔の表現に重ねることで煩雑になる恐れがあるが、セピア色の使用により画面が整理されている。また、妖魔の表現を、放射線の隙間から透かし見る構図にすることで、隠れている部分を見たいという鑑賞者の欲求に働きかける効果も生んでいる。第二の相違点に、妖魔の描写の違いがある。前者と後者の描写を比較すると、前者は、描き込みの少ない素朴な描写がなされている一方、後者では『水滸画潜覧』の魔王よりもそれぞれのサイズが大きく、より細密な描写がなされ、一体一体の個性が強調されている。両者共に、おどろおどろしい表現というよりは、親しみ易く、どことなくユーモラスな風貌だが、北斎の描いた妖魔の方が描写が細密で、よりリアリティーのある姿で表現されている。なお、『新編水滸画伝』には後摺本があり、セピア色の色版が異なる(注10)。後摺本と初摺本に描かれた妖怪の持物が共通するなど、後摺本は初摺本の描写を参考に制作されているが、初摺本の方が細密な描写がなされている。第三の相違点に、逃げ惑う人々の描写がある。『水滸画潜覧』では、手を上にあげながら走って逃げる人々が描かれているが、『新編水滸画伝』では、人々は地面に仰向けに倒れたり、倒壊した建物の下敷きになったりと、逃げることすらかなわない様子で描かれている。この表現により、爆発の衝撃や、異形のものが世に放たれる恐怖が、『水滸画潜覧』より増長して伝えられている。以上、両者の相違点を考察した。前者は後者を参照しているが、爆発の威力を強調し、より細密で個性的な姿に妖魔を描くことで、劇的な場面を創出している。また、読本という文学形態にもよるが、本文も挿絵も表現の密度が濃くなっている。その他にも、『新編水滸画伝』には、『水滸画潜覧』の表現をふまえながらも変化させている場面が複数あるが、これらの変化は、視覚的な驚きを伴うという点が共通する。その背景には、馬琴の「訳すいこを水やくする滸弁べん」にある通り、「婦女童蒙の目を歓するに足りる」作品を志向したこともあるだろう。これらの視覚的な驚きは、北斎芸術の特徴につながる点が興味深い。本図にみられる幾何学的で大胆な構図や、ユーモラスで写実的な怪異表現は天保期の北斎の錦絵とも共通する。読本挿絵の制作を通して、その素養が培われたことは特筆に値する。― 66 ―― 66 ―

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