認できる(注13)。若い頃のピカソがルーヴル美術館のギリシア・ローマ美術などの展示室でよく目撃されていたことも傍証として挙げておく(注14)。今回、本作品の右側のメランコリックな裸婦の源泉として新たに追加するのは、頬杖をついた裸婦の複製写真「りんごを手に持って座る裸婦」 〔図11〕である。これは『Almanach du nu』誌(1910年)から抜粋されたもので、ピカソの公文書(Les archives de Picasso)に保管されている(注15)。同雑誌は屋内外でいろいろなポーズを取る裸の女性たちの複製写真を多数掲載した年鑑誌で、それらも芸術表現の発想に活用されていたことは十分にあり得る。さて、エルギン・マーブルや複製写真から着想された本作品、あるいは《大水浴者》、《座る女》のモデルは一体誰なのだろうか。ジョン・リチャードソンは、ピカソは三、四人の女性のイメージを混ぜていると述べている(注16)。一方、フランソワーズ・ジローは、「(彼女の友人)ジュヌヴィエーヴは古典様式の頃に描いていたギリシア的な顔立ちをしている」とピカソが話したと回想した(注17)。この二つの言説は、1921年夏にフォンテーヌブローのアトリエで撮られた写真〔図12〕で証明できる。この写真には、中央寄りに物憂げに座るオルガが写っていて、壁には古代ギリシア彫刻風の《女の顔》が5枚貼られている。これらのなかには、リチャードソンが指摘する古代ギリシアの彫像《ヘラの胸像》〔図13〕を彷彿させるものもある(注18)。一方、他の先行説では、古典時代のピカソが描いた女の顔は、古代ギリシアの象牙彫刻の頭部〔図14〕や墓碑浮彫などから着想されている(注19)。この象牙彫刻の同頭部は、虚ろな眼差しの形の整った大きな瞳と、額から真っ直ぐに伸びた鼻が特徴である。同頭部の複製写真は1920年3-4月号の『ガゼット・デ・ボザール』誌に掲載されていた(注20)。これらの状況的証拠を鑑みると、本作品の裸婦にはギリシア的な顔立ちと、くぼんだ目と彫りが深いオルガ〔図15〕の写真の顔が混合されているように見える。次に、二人の裸婦の主題や構成に注目すると、この主題はイベリア彫刻の影響を受けた頃の裸婦画(1906年、Z.I, 366)に既に表れているし、《アヴィニョンの娘たち》(1907年)の構想段階のスケッチには本作品に近似するような構成も残っている〔図16〕(注21)。本作品を所蔵するノルトライン=ヴェストファーレン州立美術館の初代館長ヴェルナー・シュマーレンバッハは、キュビスム手法の裸婦画(1909年)〔図17〕と比較して、ドラプリーの上で二人の裸婦が頬杖をつく身振りと、左右に裸婦が配置される構成は、古典手法で描写される本作品でも繰り返されていると述べた(注22)。そしてイベリア彫刻風の同作品(Z.I, 366)に見られるような、ひとりの女性が鏡像― 78 ―― 78 ―
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