1904年4月にはバルセロナからパリへ向かう途中にアングルの出身地モントーバンに立ち寄った形跡がピカソのスケッチ(Z.VI, 487)に残っている。アングル美術館に芳名帳や記録はなかったが、ピカソの公文書には1920年頃の入場券や、パリとモントーバン間の乗車券が保管されているので、ピカソは同美術館に足繁く通っていたと思われる(注27)。古典回帰の頃の《肘掛椅子に座るオルガ》(1917年)は、アングルの《ドヴォーセ夫人》(1808年)などと同様の装いとポーズをしたオルガを写真に撮り、それに基づいて制作していることが既に指摘されている(注28)。アングルと言えば、イタリアを二回訪れてその滞在中に弟子たちと古代美術を研究し蒐集したことで知られている。先行説では、陶器画《アガメムノンの墓前のエレクトラ、オレステス、ピュラデス》(B.C.350-340年頃)〔図22〕の悲嘆するエレクトラの姿を描き起こした素描や、女性が象られた古代ギリシア墓碑《女性の墓碑》(B.C.4年中期)のデッサンがある(注29)。エレクトラらの身振りは先述した「悲嘆」などを意味するメランコリーの図像である。アングルはこうした古代美術から創造した人体形態を《アンティオクスとストラトニケ》(1840年)〔図23〕のストラトニケが手を顔の下に置いて逡巡し、瞑想する場面のポーズに採用している(注30)。また、手を顎に当てて少し顔をかしげる同様のポーズを《ドーソンヴィル伯爵夫人》(1845年)の瞑想に耽る夫人の姿にも用いた。夫人の背後には鏡があり、贅沢な部屋のなかで鏡に映った夫人の後ろ姿も明瞭に描いている。アングルが創作した同ポーズは、ピカソの《腕時計をしたオルガ》(1919年)〔図24〕や寓意的主題の《泉のほとりの三人の女》(1921年)の中央後ろの女性にも同様に見られる。「ピカソはアングルが女性の心理を巧みに描き出すために創造したさまざまな身振りや鏡像に感化されていた」とロバート・ローゼンブラムは指摘している(注31)。《手紙を読む女》と《座る女》では、白い部屋着姿のオルガが椅子に座り、こめかみに手を当てて手紙を読み、頬杖をついて思案や瞑想するポーズを取っている。この頃のオルガは、祖国の家族がロシア革命で社会的地位を失い、父親や兄弟の消息が途絶えてしまった知らせが届いて、不安や喪失感で一杯だったようである(注32)。空虚な眼差しをした《想いに沈むオルガ》(1923年)〔図19〕には、オルガのそのような精神状態が描かれているのである。ラカンは「不安」を「他者(lʼAutre)の欲望の固有な現れ」としている(注33)。人は他者の欲望に直面したときに「不安」になる。絵のなかのオルガは家族の近況報告を受けて不安になり、逡巡し思案している。また、ラカンによれば「絵には常に何かの眼差しがあり、画家はそれをよく知っている。絵には眼差しの制圧があり、視る― 80 ―― 80 ―
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