鹿島美術研究 年報第35号別冊(2018)
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か3年後のことである。この時代にドイツは体系的な沖縄関係のコレクション収集を日本政府に依頼し、日常品など543点が目録とともにドイツへ渡った。その目録からは、男女別、各階級別の普段着と晴れ着が含まれており、文献の少ない琉球王国時代末期の衣服制度と文化を知ることのできる一級資料である。第二次世界大戦末期にこのコレクションは行方不明になり、現存するのは衣類61点など100点余りである。先に触れた鎌倉芳太郎が沖縄へ着任したのは大正10年(1921)であり、そのころにはすでに琉球の風俗もだいぶ日本化していたようだが、残された首里城などに感激している様子が報告されている。紅型は大正12年(1923)から昭和2年(1927)の滞在中に「発見」し、みずから職人が使用していた「びんかたつけ」という言葉に「紅型」の字を選んだと述べている(注5)。鎌倉の語った様子からは、すでに沖縄では紅型の衣裳を着用している人が少なくなっていたことがうかがえる。琉球王国崩壊後、急激な日本化によって本来の衣服文化が損なわれ、琉球王国時代に着用していた衣裳が衰退していった様子が分かる。衣服文化の衰退とともに、制作者である職人も少なくなり、鎌倉が調査した段階では、ほとんどの紺屋が廃業していたという状況であった。昭和に入ると、鎌倉らの努力もあり、沖縄で途絶えていた紅型制作復興の兆しが見え始めるが、太平洋戦争に伴う沖縄戦で沖縄本島はすべてが灰と化し、沖縄に遺された文化遺産はすべて失われてしまった。昭和2年(1927)に沖縄から帰った鎌倉は、展覧会などで沖縄の美術工芸を紹介し、紅型も本土において注目され始める。松坂屋染織コレクションには洋画家の岡田三郎助が収集した沖縄の染織品が50領収蔵されている。このコレクションは昭和9年(1934)に松坂屋が岡田三郎助から購入している。また、女子美術大学美術館には旧長尾美術館が所蔵していた小袖類が収蔵されているが、その中の沖縄の染織品は、長尾家が昭和18年(1943)までに所有していたことを作品目録からたどることができる。以上のことから、大正時代以降、つまり鎌倉芳太郎が沖縄の美術工芸品を本土に紹介して以降の紅型衣裳は、本土の美術収集家のコレクション対象として存在し、おおよその収集年は推測できるが、制作された時代や着用者などの情報を得ることは難しい。唯一ベルリン民族学博物館の所蔵品が、王国末期の作例と目することができ、また社会階級ごとの衣服が分かる貴重なものなのである。今回の研究テーマである海外の博物館・美術館が所蔵する紅型衣裳の調査では、アメリカ2館、イギリス1館において、紅型衣裳および沖縄の衣裳を調査することができた。今回は、ベルリンに次いで古い収集年の作品を調査することができたことが大― 100 ―― 100 ―

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