されている紅型を中心とした沖縄の染織品の調査を行った。今回の調査の目的である編年については、1909年に沖縄で収集されたPEMの作品群が鍵となることが明らかになり、大きな収穫であった。制作年代を知るうえで基準作となる衣裳の少ない沖縄の染織品においては、1882年に収集されたベルリン民族学博物館のものについで古いものであることが分かった。また、岡田三郎助が収集した紅型類も1928年(昭和3)には所有されているので、この3つの大きなコレクション群をさらに比較検討することで、紅型衣裳の編年に関する研究が進むものと考えている。今後は国内にある紅型衣裳との比較も行いながら、この研究を継続していく。また、今回すべての施設に収蔵されていた「流水杜若文様」の紅型について、今後の課題として考察を進めたいと思っている。日本の小袖においても人気のある「流水杜若」のモチーフは、日本においては、『伊勢物語』の「東下り」の段の文脈の中で語られている。謡曲「杜若」もこの『伊勢物語』に基づいて作られたとされており、尾形光琳の杜若図屏風をはじめ漆工芸品など、日本の芸術の中で幅広く選ばれ、好まれてきた題材である。琉球においても同様の文脈の中で「流水杜若文様」が取り上げられていたのか、という疑問を今回の調査から持つようになった。江戸時代初期から始まった「江戸上り」(江戸立ち)(注11)により、毎回100名近い琉球の使節が江戸までの長い旅をしたことから、日本と琉球の交流は当然あった。さらに琉球王国は江戸初期には薩摩藩の付庸国となり貢納も義務付けられ、首里には薩摩藩の在番奉行所もあった。琉球国の王子も青年期には薩摩藩へ赴き、薩摩で学問や日本の文化を学んでいた。このような背景から江戸時代には日本の文化が十分琉球国へ流入していたと思われるが、日本の和歌や古典文学などを、どの階級の人々がどの程度習得していたかということについて調べる必要があると感じた。紅型を制作するのは職人たちであり、彼らがどの程度日本の文化というものを理解していたのかという点についても考察する必要がある。おそらく、文献資料などが遺されていることは期待できないと思われるため、日本の小袖における「流水杜若文様」と紅型の「流水杜若文様」を丹念に比較しながら、情報収集し、研究を進める必要がある。日本においては、小袖に描かれた文様の主題についての歴史的な研究というものが多くなされており、近年においても大阪市立美術館で開催された特別展「うた・ものがたりのデザイン─日本工芸にみる「優雅」の伝統─」のなかで、小袖と文様の関係について取り上げられている。しかし沖縄の染織品、特に文様が日本的だと指摘されている紅型の文様について、作品と主題との関係についての研究は今まで行われていなかったので、この調査をきっかけに、沖縄の紅型に表現された「流水杜若文様」に― 106 ―― 106 ―
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