アカデミーでの修業時代にギジスは、《ユディットとホロフェルネス》〔図1〕のような聖書や神話を主題とした歴史画をいくつか制作しているものの、当時から1880年代中頃まで繰り返し描いたのは、庶民の現実生活を写し取るレアリスム的風俗画であった。そうしたレアリスム的風俗画に積極的に取り組むようになったのは、一つにはアカデミーでの友人関係が影響していた。1865年にアカデミーに入学したギジスは、最初ヘルマン・アンシュッツ(1802-1880年)に学んだ後、アレクサンダー・フォン・ヴァーグナー(1838-1919年)のクラスを経て、ピロティのクラスに進んでいる。その最初のアンシュッツのクラスにおいて、後にドイツ写実主義の旗手となるライブルと出会っていて、すぐにギジスは前衛的なライブル・サークルの一員となってレアリスムの洗礼を受けていた(注8)。また、ヴァーグナーのクラスでギジスは、後にアカデミーの歴史画クラスの教授となりながら歴史画ではなく風俗画を得意としたフランツ・フォン・デフレガー(1835-1921年)と知り合い、終生にわたる親友となっている。こうした友人たちとの交流の中でギジスも自然と庶民の暮らしを見つめるレアリスム的風俗画を制作するようになったと考えられる。またもう一つには、当時のミュンヘンの中産階級が風俗画を好んだことにその理由を求めることができるだろう。ギジスの支援者であり後に義父となるニコラオス・ナゾス宛の手紙の中で奨学金やお金の問題についてしばしば触れるように(注9)、ギジスは常々経済的な問題を抱えていて、とりわけ1877年にナゾスの娘アルテミスと結婚してから1882年にアカデミーに就いて安定した収入を得るようになるまでは、生活のために売れる絵を描く必要があったのである(注10)。このような画家仲間からの影響と当時需要のあった絵画ジャンルということに加え、そもそもギジス自身が大工の息子であったことから庶民の暮らしに共感したために、その画業の早い段階から、普仏戦争の勝利の知らせに沸く国民の様子を伝える1871年の《勝利のニュース》〔図2〕や《孤児》〔図3〕といった当時のドイツの庶民の日常を主題とする作品を描いたのである。1871年にアカデミーでの修業を終えたギジスは、翌年にギリシアへ帰国し、74年までアテネに暮らしている。その間、メガラやエレウシスといったアテネ近郊の町へ小旅行に出かけて庶民の暮らしをスケッチし、また73年の夏には友人の画家リトラスとともに小アジアを旅行してオリエントの暮らしや衣装を研究している。こうして故国ギリシアやオリエント特有の明るい光と色彩表現を獲得し、エキゾチックな風俗を研究することになった一時帰国を経て1874年にミュンヘンに戻ってからは、ギリシアや小アジア、さらには引き続きドイツの庶民の日常を描き出すレアリスム的風俗画を制― 113 ―― 113 ―
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