作したのであった〔図4〕。1880年代になると、親友デフレガーの地元チロルや南バイエルンのアルプス山麓の村に出かけ、農家や家並みを描くドローイング〔図5、6〕、あるいは自然光とその反射を研究する風景の油彩スケッチを残している〔図7、8〕。このような光の表現の研究のためにアルプス山麓で行われた一連のドローイングや油彩スケッチは、原田直次郎がミュンヘン留学時代にアルプス山麓のコッヘルを描いた油彩《風景》〔図9〕や、その下絵のドローイング(注11)と主題や構図に関して類似がみとめられる作品群としても注目される。ギジスは教師として、原田は学生として同時期にアカデミーにいた二人の間の直接的な交流の証拠はないものの、ギジスは原田の師であるガブリエル・フォン・マックス(1840-1915年)とピロティ門下生同士で交流があり、原田の友人である画家エクステルと女流画家プファフの先生でもあったことから、彼らを介して原田との間にも交流があったと考えたい(注12)。ギジスが原田にとってアカデミーにおける身近な先生の一人であったならば(注13)、アルプス山麓でなされたギジスのドローイングや油彩スケッチを目にしたことがきっかけの一つとなり、原田はコッヘルにスケッチ旅行に出かけて農家の風景を描こうとしたと考えられないだろうか。寓意画や象徴主義的作品を中心とした1880年代中頃以降の画業上述のように、ギジスは1880年代中頃以降、風俗画をあまり描かず、寓意画や、神話や聖書をモチーフとする象徴主義的作品をもっぱら制作するようになる。1880年代後半からとりわけ顕著になるが、そもそもギジスはミュンヘン留学以前のアテネ時代から寓意画を制作していて(注14)、さらに風俗画を中心に取り組んでいた70年代にも散発的に寓意画や象徴主義的な作品を描いていた。例えば、70年代後半の《芸術とその霊たち》や、1876年から取り組み始めた《歓び》〔図10〕、あるいは1878年にバイエルン王ルートヴィヒ2世に依頼されて80年に完成したカイザースラウテルンの産業博物館の天井画《美術工芸の諸芸術とその霊たち》や1882年にウィーンから出版されたマルティン・ゲルラッハ編『アレゴリーとエンブレム』のためのドローイング《戦い》〔図11〕(注15)などが代表的作例として挙げられる。また、1880年代中頃以降の作例としては、1886年の《春のシンフォニー》、ミュンヘンの水晶宮で1888年に開催された第3回国際美術展のポスターのための寓意画《芸術の霊》や1892年の《歴史》〔図12〕、ピアノ会社イバッハ創業100周年記念品のためのデザイン・コンペで173人の中から選ばれた1893年の寓意画《調和》、さらには1895年にバイエル― 114 ―― 114 ―
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