⑿さらにギジスは、原田のミュンヘン留学時代にアカデミーの初歩クラスを受け持っていたため、直接原田を教えていた可能性もある。原田とギジスとの交流の可能性をめぐる論考として以下がある。拙稿「ミュンヘン時代の原田直次郎とギリシア人画家ニコラオス・ギジス」同書、162-165頁。⒀ディダスカロス氏からの教授によると、ギジスはギリシア人をはじめとして数多くの外国人留学生を受け持っていた。また、ドイツ語がそれほど堪能ではなかったことから、外国人留学生にとって近寄りやすい教師であったとされる。⒃こうしたギジスによる寓意画や象徴主義的作品の内、モニュメンタルな2点の壁画は第二次大戦中に破壊され、最初期の《芸術とその霊たち》と最晩年の《新世紀》は現在所在不明となっている。一方で、水晶宮における国際美術展のポスター用に描いた《芸術の霊》と《歴史》は、同展覧会の公式カタログの表紙絵としても繰り返し用いられ、グラフィックな仕事ながらギジスの名を広めることとなった。⒄紙幅が限られているため本稿では触れ得なかったが、ギジスはその画業全体を通じて家族をはじめ市井の女性や老人をモデルとした人物画を数多く残していることを付け加えておかなければならない。― 117 ―― 117 ―Didaskalou, Gyzis in Tinos, 100 Years from the Death of the Artist, Tinos 2001; T. Μαρυρωτάς and Κ. Διδασκάλου (eds.), Νικόλαος Γύζης, Ο μεγάλος ζωγράφος, Αθήνα, 2013; A. Danos, “Idealist “grand visios,” from Nikolaos Gyzis to Konstantinos Parthenis: the Unacknowledged Symbolist Roots of Greek Modernism,” in M. Facos and Th. J. Mednick (eds.), The Symbolist Roots of Modern Art, Surrey and Burlington, 2015, pp. 11-22.⑻Μισιρλή, op. cit., pp. 34, 343.⑼Δροσίνη and Κοροήδα (eds.), op. cit., passim.⑽Didaskalou, op. cit., 1991, p. 10.⑾ブリヂストン美術館所蔵の原田直次郎《画帳》の中に描かれている。原田によるコッヘルの風景ドローイングについては、『原田直次郎 西洋画は益々奨励すべし』青幻舎、2016年、58-59頁の図2-31を参照されたい。⒁Μισιρλή, op. cit., p. 341. ギジスは、後に義父となる支援者ナゾスの邸宅のために、1862年からフレスコ壁画の制作を始めている。現存しないその壁画には、理想主義的風景の中にたたずむ「四季」を表す少女の擬人像が描かれていた。⒂M. Gerlach (ed.), Allegorien und Embleme, 2 vols, Wien, 1882, vol. 1 Allegorien no. 104. 筆者は、2016年の岡山県立美術館における原田直次郎展の関連事業として美術館講座「ミュンヘン時代の原田直次郎の美術活動をめぐって」を開催し、本書に所収されるプットーや有翼の童子像と、原田直次郎による帰国後の『国民之友』の挿絵に登場する有翼の童子像とを比較考察し、蝶の羽の表現などに類似点があることを指摘した。それと同様の指摘が最近の論文の中でなされている(薮田淳子「原田直次郎《騎龍観音》《素尊斬蛇》における同時代のドイツ美術とベックリンの影響」『美術史論集』18号、2018年、65-88頁)。薮田はギジスが「『アレゴリーとエンブレム』を所有して」いたと述べ(同上、74頁)、原田がこれを目にしていた可能性を指摘している。しかし実際は、ギジスは所有どころではなく、同書のために《戦い》を描いていた。原田の帰国後のグラフィックな仕事には、ミュンヘン時代に手に取ったと推測される書籍や美術雑誌の表紙絵や挿絵が大きく影響していると考えられるが、この点については稿を改めて論じたい。
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