Waldによれば、対応する章句(注16)は詩篇108:2「罪深い者の口、狡猾な者の口が私に向かって開き」、108:8「彼の日々はわずかになれ/彼の職務は他人が取れ」(注17)である。上段は、いわゆる使徒の交代の場面である(使1:12~26)。キリストを裏切ったユダが後悔のなか自死を選び、十二使徒に生じた欠員をくじ引きで決めた結果マティアが選ばれ、もう一人の候補であったバルサバは退いた。新約聖書の一場面であり、当然ながら旧約の王であるダヴィデが立ち会った出来事ではない。本文である詩篇108:8が、挿絵として描かれたこの場面を語る使徒言行録に引用されたため(使1:20「詩篇にはこう書いてあります。『その住まいは荒れ果てよ、/そこに住む者はいなくなれ。』/また、/『その務めは、ほかの人が引き受けるがよい』)(注18)、これは予め旧約聖書の詩篇において語られた出来事であったという予型論的解釈に基づき描かれた図像であることは明らかである。少し大きな立ち姿で描かれたダヴィデには、詩篇本文によって旧約聖書と新約聖書の一場面が結びついていることを視覚的に示す機能がある。キリストがマティアに相対していることも、使徒言行録の記述通りではない。彼が選ばれる直前の使1:6~11において、キリストは使徒たちの目の前で昇天しているのである。使徒の交代が108:8に描かれている点だけを見ても、この挿絵に予型論的解釈が介在したこと、神学的解釈を踏まえている(注19)ことが窺えるが、下段についても触れなければならない。王子アブサロムはダヴィデの息子で、これはその最期の場面である。豊かな髪を持つ美しいアブサロムは、妹を辱めた兄アムノンを殺し、一度はダヴィデから許されたものの、後に王を裏切って戦い、大敗した。逃げる途中で樫の大木に頭が引っかかって宙づりになり、兵士に囲まれ殺された。サム下13:1から始まる一連のエピソードの帰結である。先行研究はここにアブサロムの死が置かれることを記述するのみで何故かそれ以上の言及がないが、木に引っかかりぶら下がるアブサロムは、明らかに上段の首を吊るユダと視覚的な対比を成している。新旧約聖書それぞれにおいて、裏切りを犯した者が木に吊られ死に至る場面が、上下に配されているのである。この挿絵の配置のみでも、1927番に予型論的解釈が存在しないと言い切ることは誤りと言えるだろう。筆者は9世紀、11世紀の余白詩篇に描かれた同章句の挿絵を既に論じている(注20)。余白詩篇は1927番と全く異なるアプローチを行っており、それぞれの写本が第108篇に使徒の交代場面のみを描くのではなく、ユダの罪を強調する図像と併せたり、昇天と組み合わせて使徒言行録の物語を複数頁に亘って示したりする複雑な構造を― 3 ―― 3 ―
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