⑫木米の交友関係─初期と最晩年の動向─研 究 者:長崎歴史文化博物館 研究員 長 岡 枝 里はじめに木米(1767~1833)(注1)は田能村竹田や頼山陽、木村蒹葭堂をはじめとした文人墨客と親密な交流を持ち、陶工としてその名が知られている。作陶のみならず、《兎道朝潡図》(東京国立博物館蔵)をはじめとして絵画作品においても佳作を残している。木米の画業について、これまでに調査研究を進めるうち、従来言及されてきたもの以外にも木米の名を見出せる同時代の資料が少なくないこと、それらが木米の活動を明らかにする上で非常に有用であることがわかってきた。そこで本研究では、特に木村蒹葭堂、米屋平右衛門という2人の人物に注目し、いくつかの資料をもとに木米との関係について検証する。蒹葭堂と木米木米自身が記した唯一の自叙伝である「上奥殿侯書」は、清の朱笠亭の著作『陶説』全6巻を木米が校訂し、三河奥殿藩六代藩主松平乗羨(1790~1827)へ献上する際に添えられた。木米没後刊行された『陶説』に所載されている。まずは「上奥殿侯書」の冒頭部分を引用する(注2)。(前略)僕往年遊浪花。寓木蒹葭堂。始閲龍威秘書。其中有清人朱笠亭所著陶説六巻。読之有会於心。因乞寫謂我嬖書。劤誦不止。竊意鋳銭則有犯律之咎。彫玉則無昆吾之刀。冶銅器亦身不得與之倶寿。莫能目後人賞玩之時也。於是乎始有志陶業。三十年於此。(後略)この「上奥殿侯書」にも記されるように、木米は木村蒹葭堂の元を訪れ、その時『龍威秘書』中の『陶説』を閲覧し、陶工を志したという。『蒹葭堂日記』寛政8年正月11日の条に「青木八十八 印刻ノ人 古門前木屋佐兵衛ノ子也」とあるのはよく知られ、木米はその日以降、蒹葭堂宅に再訪せず、両者の直接の面識は1回しか確認できないとされてきた。しかし、木米本人が、蒹葭堂が蔵していた『陶説』を写したと記しており(注3)、6巻に及ぶ大著をいつ写したのかが謎とされてきた。近年、享― 122 ―― 122 ―
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