和元年(1801)1月6日にも再訪していることが指摘された(注4)。そこで改めて『蒹葭堂日記』を読み返したところ、木米が更に数回に渡って蒹葭堂宅を訪れていたことを確認した。ここでは同日記内の木米についての記述のみを簡略にまとめる(注5)。・寛政8年(1796) 正月11日 「青木八十八 印刻ノ人 古門前木屋佐兵衛ノ子也」 枠外に「青木八十八 鳳冲紹介来」と書きつけられる。・寛政11年(1799) 3月4日 「京 木屋佐兵衛」(注6)・寛政12年(1800) 7月3日 「木屋佐兵衛」 ・同年 ・享和元年(1801) 11月6日 「京木屋佐兵衛」木米は計5回、通算7日間、蒹葭堂の元を訪れている。蒹葭堂は享和元年末頃に体調を崩し、年が明けた享和2年(1802)1月25日に没しているので、木米は蒹葭堂の最晩年まで交流を持っていたこととなる。寛政12年には、7月3日から5日まで3日間連続で訪れており、蒹葭堂宅に滞在した可能性も考えられる。のちに翻刻する『陶説』を書写したのもこの時と仮定すれば、木米自身の記述の矛盾も解消出来る。7月4日 「木佐」7月5日 「木佐」10月2日 「木屋佐兵衛」ところで、木米は寛政12年4月末から享保元年2月までの間(注7)に紀伊藩の招聘をうけて和歌山の地に赴いており、蒹葭堂の元を訪れていた時期と一致している。安永拓世は、蒹葭堂が紀伊藩主徳川治宝と何度も謁見している事実に触れ、紀伊藩と蒹葭堂の間に何らかの関係があった可能性を論じている(注8)。また、様々な地域の文人たちが紀州旅行の前後に大坂の蒹葭堂を訪問していると指摘した。陶工としてはまだ駆け出しであったと言える木米が紀伊藩に招聘されることとなった背景には、蒹葭堂の口添えがあった可能性も十分考えられるのではないだろうか。木米の人生を変えた契機を作ったとされつつも、記録に見える関係性の希薄さから謎の多かった両者の交流であったが、実際には年に一度程度の頻度で親しい交流を重ねていた。それ程長い年月ではなかったが、蒹葭堂の最晩年に接することの出来た木米は、多くのことを学び、他の文人らの知遇を得る機会も多かったにちがいない。殿村茂済と木米木米の活動を支えた人物として注目したいのが殿村氏なる人物である。殿村氏とは大坂両替商の米屋平右衛門のことで、通称「米平」と呼ばれた。初代米屋平右衛門― 123 ―― 123 ―
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