(1680~1721)は在府諸侯と大坂商人の間で使用する江戸為替を始めた両替商として知られている。その後も殿村家は大坂の有力な商人として名を知られた(注9)。『平安名陶伝』には殿村家が所蔵していたという、木米から殿村氏宛の書翰16通が全文掲載されている(注10)。本研究では次の理由によりこの書翰を取り上げる。第一に、文書資料の少ない木米本人が記した資料であること。第二にこれまで関係が指摘されつつも、あまり詳しく言及されてこなかった木米と大坂の商人についての資料であること。そして殿村氏が木米のパトロン的な存在であり、木米の活動に大きく関与していたことが内容により明らかであるからである。今回、脇本が実際に殿村家から借り受けた原本を写した写本資料〔図1〕が発見され、実際に調査することが出来た。現在、個人の所蔵となっている本資料は、脇本が原本のうち10通を敷写ししたもので、裏にも宛名などの書き込みが見られる。縦23.5cm、全長831.4cmで巻子状にまとめられている。巻末に脇本自身による以下の文が添えられている〔図2〕。この木米書翰集の原本は大阪殿村氏に今も伝へたり。大正の半ば、予、京都洛陶会の嘱によりてかの名工の伝をものしゝ時、借り侍りてうつし置けるもの此巻也。いまこれを廣園兄におくるに当りて一言を記すといふ。昭和乙酉春二月 楽之「楽之軒」(朱文方印)これによると大正10年刊行の『平安名陶伝』執筆時に写した書翰を昭和20年に廣園なる人物に譲った際に記したものらしい。箱には表面に「木米尺牘」、裏面に「脇本楽之軒摸写セルモノ也」とあり「藤茶亭識」の墨書と「藤茶亭」(朱文方印)が捺される。この廣園と藤茶亭なる人物については詳細が不明である。本資料は、単に内容を書写しただけではなく、木米の筆跡を写しており、原本の所在が不明の現在では非常に貴重なものである。木米と殿村氏の関係はどのようなものであったのか。脇本は「普通大坂ではお來は大坂の富家殿村氏の妾であったといって居る(注11)」と記している。この情報の真偽のほどは不明であるが、殿村氏と木米がかなり近しい関係であったことが示唆される。脇本は更に「一体お來を愛した殿村氏の名は何といふのであらう。『蒹葭堂日記』の題箋を書いた殿村茂済が或いは其人ではないか。殿村氏の示された木米書状の名宛は何れも殿村原明号桂陰であって、これはお來を愛した人の子に当るのであらうと思ふ。」と記している。― 124 ―― 124 ―
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