鹿島美術研究 年報第35号別冊(2018)
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ここで言及されている宛名を確認する。『平安名陶伝』所載の16通の書翰の宛名は「桂陰君」6通、「村原明君」5通、「殿原明君」2通、「殿村君」「殿村先生」「殿村桂陰君」各1通となっている(注12)。なお、殿村茂済(1795~1870)とは6代目米屋平右衛門のことだが、お來の夫と目されている米平は天保2年に没しており、茂済は該当しない。殿村茂済は、幼名磯次郎、字は原明、通称米屋平右衛門、号を桂隠・梅叟・粿廼舎・草垣内等の号がある。寛政7年(1795)9月10日、殿村家の分家米屋伊太郎の長男として生れた。注目すべきは、茂済の字と号である。前述した木米の書翰の宛名である「原明」、「桂陰」と一致している。つまり、木米と親しく書翰をやりとりしていたのが殿村茂済その人であった。茂済は、5歳の時に本家の養子となり享和2年に家督を相続している。文化8年に元服し、6代目米屋平右衛門を名乗るようになる。資性風流を好み、和歌を村田春門(1765~1836)について学び、法躰して真斎と称し、晩年は今宮村に隠棲し、明治3年7月7日、76歳で没したという(注13)。茂済は、売茶翁の煎茶の流れをくむ浪華在住の名家22名をあげ、肖像と略伝を記す『浪華煎茶大人集』(注14)のひとりにも選ばれている〔図3〕。そこには以下のように記されている。衆芳園主人は和歌を善くして書もまた高尚にして上品の書躰なり。姓は殿村名は茂済俗称米屋平右衛門と唱て家を治るの正しきより風雅のある千とせの松の傍に梅花のかほれるが如し。高翁持の茶瓶を伝て煎茶をよくす。又鉢山水を好み奇々妙々なる山水をおほく貯へたり。居は内平野町東詰ひがしへ入和歌をよくしたという茂済は『草垣内文稿』『草垣内長歌稿』『類題三家和歌集』の著作がある。また、宮内庁書陵部図書文庫に『大坂平野町殿村蔵書籍目録』(注15)が、東京大学附属総合図書館には『殿村氏蔵書目録』(注16)がそれぞれ所蔵される。本研究との直接の関連は見出せないが、茂済の学問への深い造詣と豊富な蔵書の一部を垣間見ることが出来る資料としてここに紹介する。いずれも内容は、書名・註記・冊数が列記され、書陵部本は書の題目がのべ522題挙げられる。また、東大図書館本の最終頁には国学者である小中村清矩(1822~1895)が慶應2年に記した跋文がある。国学者で歌人である村田春門に師事していた茂済は、和歌だけでなく国学についても深く学んでいたとみられる。― 125 ―― 125 ―

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