鹿島美術研究 年報第35号別冊(2018)
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村家は単に注文主というだけでなく、貴重な資料の提供といった面からも木米の制作に大きく関与していたとみるべきであろう。書翰に戻る。その日のうちに大坂へ帰る茂済に対し、最後に「扨又御買取被下候品々御使に御渡申上候 御落手奉願候」とある。茂済が買取った品々とは、木米が制作した陶磁器や絵画であろう。茂済が木米の上顧客であったことはこのやりとりで明白である。茂済と木米の書翰のやりとりで、もうひとつ注目すべき点がある。文中にたびたび登場する「安達」なる人物である。16通の書翰のうち、7月7日付、10月4日付、11月23日付の3通にその名前が見える。「安達法印」「安達入道」とあるので僧侶らしい。脇本は南禅寺塔頭の慈聖院の禅師であるとしているが、これは7月27日付の書翰に登場する「此比慈聖禅師」と安達氏を同一人物とみての記述であろう。書翰には南禅寺も数回登場し、10月4日付書翰には、南禅寺に行く茂済との約束の前日に体調を崩した木米が、安達氏にこの約束を託した旨が記されている。安達氏が南禅寺塔頭の僧であった確証はないが、安達氏は日常的に木米と接し、煎茶などを共に楽しむ間柄の人物で、茂済と木米の共通の知人であるのは確かである。ところで、木米の周辺に「安達」の姓を持つ人物がもう一人いる。重要文化財《兎道朝潡図》(東京国立博物館蔵)〔図4〕の為書に記される「皋陽君」である〔図5〕。東博本《兎道朝潡図》の賛「兎道朝潡図 甲申仲秋為皋陽君 畫於鑑水楼中 木米」に登場する「皋陽君」について、先行研究では嘉永5年版『平安人物志』に掲載される医者、和気正稠ではないかと指摘されている(注19)。ここで改めて嘉永5年版『平安人物志』(注20)の記述を確認すると、「医家」の「口中」の項に「和気正稠 字龍吉号皋陽 五条橋五丁目 安達大進」とある。和気姓は通称がそれぞれ異なっている他の医師も使用しているので、「安達」姓が本名であろう。安達大進について更に調べると、慶應3年版『平安人物志』にもその名が見える。「医家」の項に「和気 字 鞘屋町五条南 安達大進」とある。さかのぼって天保14年序『天保医鑑』(注21)に「口科 有栖川王府医員 安達大進 和気正稠字龍吉号皋陽 又一葵○五条橋通五丁目」とあることが確認できた。今でいう歯科医師で、有栖川宮家に仕えている。これらの資料は天保14年(1843)、嘉永5年(1852)、慶應3年(1867)となっており、いずれも木米が67歳で没した天保4年(1833)以降のものだが、活動時期としては問題ない。木米が皋陽君のために描いた作品は他にも残されており、木米の支援者の一人であったとされている(注22)。代表作である東博本《兎道朝潡図》を贈られた人物と、木米の晩年を精神的に支えていたとみられる人物がど― 127 ―― 127 ―

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