鹿島美術研究 年報第35号別冊(2018)
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注⑴ 「青木木米」という表記が一般的だが、木米自身が「青木木米」と署する例は極めて乏しいこ⑼ 大阪市東區法圓坂町外百五十七箇町區會編『東區史 第五巻 人物篇』大阪市東區役所 1939⑵ 本稿では早稲田大学図書館所蔵の『陶説』巻1-6(天保6年識)を参照。⑶ 「上奥殿書」に「(前略)僕往年遊浪花。寓木蒹葭堂。始閲龍威秘書。其中有清人朱笠亭所著陶説六巻。読之有会於心。因乞寫謂我嬖書。劤誦不止。(後略)」(下線部は筆者による)とある。⑷ 佐藤節夫「青木木米と木村蒹葭堂」『陶説』749号 日本陶磁協会 2015年⑸ 蒹葭堂日記は、以下の書籍を参照。 木村巽斎著、水田紀久編『蒹葭堂日記 翻刻編』蒹葭堂日記刊行会 1972年 木村巽斎著、水田紀久編『蒹葭堂日記 花月菴蔵』蒹葭堂日記刊行会 1984年 木村巽斎著、水田紀久・野口隆・有坂道子編著『完本 蒹葭堂日記』(木村蒹葭堂全集別巻)⑹ 寛政8年の条の「木屋佐兵衛」は木米の父を指す。青木家の菩提寺であった上行寺過去帳(脇本十九郎『平安名陶伝』洛陶會 1921年 所載)によれば、木米の父は寛政7年7月29日に没しており、2回目以降の「木屋佐兵衛」は木米本人のことである。『平安人物志』には文政5年版に「木舎佐平」、文政13年版には見出しに「木佐平」とあり通称にも「木舎佐平」と記されており、「木屋佐兵衛」の屋号を木米が使用し、認知されていたことは明らかである。⑺ 脇本十九郎『平安名陶伝』洛陶會 1921年 p. 59 徳川治宝の参勤交代の記録から在紀州の時期⑻ 安永拓世「きのくに文人交友録」 和歌山県立博物館編『文人墨客─きのくにをめぐる─』和⑽ 脇本前掲書pp. 181-234「第17章 晩年」に16通の翻刻が掲載されている。なお、殿村氏との書翰を扱った研究に、島村幸忠「《研究ノート》青木木米と煎茶─田能村竹田との関係を通じちらも「安達」姓である点は非常に興味深い。両者が同一人物であるかは未だ確証を得られていないが、もし同一人物であるとすれば、木米の制作を支え、関与していた存在として、より日常的で身近な人物にも注目する研究が重要となってくるだろう。おわりに木村蒹葭堂と殿村茂済と木米の関係について、主に文字資料から分かる事実を確認し考察を行った。資料そのものは以前から知られたものであるが、再度検証することで、木米の初期と晩年について、制作に係る動向を明らかにすることが出来た。木米の作品、特に絵画作品には為書が多く、そこに記される人物について未だ不明であるものがある。今回明らかとなった交友関係から、より広い視点で木米の活動を見直し、具体的な作品の考察に繋げていきたい。とを踏まえ、本稿では「木米」のみの表記で統一する。藝華書院 2009年を割り出している。歌山県立博物館 2007年年(なお以降、前掲⑼『東區史』と表記する)― 128 ―― 128 ―

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