(注8)。八幡縁起絵巻諸本は宮次男氏によって甲乙二分類に大別されるが、いわゆる根本縁起に相当する作品の具体像は不明である(注9)。宮氏は成立時期を、詞書中の筥崎宮創建時期を根拠に承久三年(1221)年以降若干年と推定されているが、その後の研究より十四世紀の初頭に成立したと考えられる(注10)。奥書より元亨二年(1322)の模写本であることがわかる出光美術館の二巻(以下、出光本)が現存最古作例である。諸本のうち十四世紀の作例として、ほかに康応元年(1389)のサンフランシスコ・アジア美術館の二巻、和歌山・鞆淵八幡宮の白描の一巻がある。これらは皆、宮氏によって甲類に分類される本である。甲類は諸本を通して詞書、図像における構成に差異が少なく、特にこの三巻は画風や構図もよく似ている。本稿では出光本を扱い、話を進めていこう。上巻(絵五段、詞書五段)(1)鳳輦に乗る神功皇后、途中老翁姿の住吉明神と出会う(2)住吉明神、牛を投げる(牛窓伝説)(3)住吉明神、岩を射通す(4)住吉明神、細男舞で安曇磯童を召し寄せ、磯童は干満二珠を神功皇后に献じる(5) 神功皇后、二珠を用いて異国の兵を全滅させる。龍神が死者を飲み込む。皇后、新羅王の前で戦勝の碑文を刻む上巻第一段では鳳輦に乗る神功皇后と住吉明神が出会う場面が描かれている。出光本の鳳輦の図像では駕輿丁が狩衣姿で鳥兜を被っている〔図1〕。鳳輦にも台から布が下がっており、このような装束の駕輿丁と布のついた輿の図像は「年中行事絵巻」の巻九「祇園御霊会」の神輿とその担ぎ手に見られる。また、出光本では鳳輦を先導する人物が二人描かれるが、一方は榊を、もう一方は鉾を持っており、これは行幸というよりは祭の行列を思わせる。後世伝本の一部には、鉾を持つ人物が猿田彦のように鼻高面をつけた姿で描かれるものもある(注11)。住吉明神は道服を着た老翁姿である。金光哲氏は住吉が老翁であることの初出は『赤染衛門集』であるという(注12)。住吉明神の絵像の制作については「高山寺縁起」文暦二年(1235)に明恵が春日住吉両神の形像を安置したことが記される(注13)。この図像は現存しないが、写しであると考えられる「住吉大明神像」(十四世紀)があり、住吉明神は道服をまとった老翁の姿である。老翁の住吉明神の活躍は第二段、三段に描かれており、海中から襲いかかる巨大な牛を投げ飛ばす、いわゆる牛窓伝説や、巨岩を矢で射抜くなど、人― 144 ―― 144 ―
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