身ならざる力を発揮して皇后を助ける場面が取り上げられている。第四段には海上の舞台で、直面に鳥兜を被って毛耗の裲襠を着て舞う住吉明神と、陸地の6人の楽人が描かれる。それぞれの楽器は琵琶、横笛、笙、篳篥、太鼓、琴である。住吉明神の向かいには、干満二珠の付いた枝を捧げ持った安曇磯童が龍頭の船に乗っている。磯童は住吉明神同様鳥兜を被り裲襠を身に付ける〔図2〕。舞楽の場面は「年中行事絵巻」巻一最末尾に抜頭の舞をご覧になる場面があり、楽人はいないが舞人と、池に龍頭の船を浮かべ、四人の童がその船を操る様子が描かれている。また久保惣記念美術館「駒競行幸絵巻」(十四世紀)においても船楽の場面があり、舞人と、龍頭、鷁首の二艘の船には、それぞれ櫂を持った四人の童と楽人が描かれている。出光本詞書にはただ「船に乗りて」とあるところだが、磯童が乗る船に龍頭が付くのは、舞楽の場面において龍頭の船と童があるべき風景だったからではないだろうか(注14)。長元年間(1028~37)成立とされる『栄花物語』巻二十四「わかばえ」に「御霊会の細男の手拭ひして顔隠したる心地するに」とあり、出光本制作時には「細男」は顔を隠す装束であったはずである。老翁の住吉明神が何の面も被っていないため具体的に何を舞っているのかはわからないが、実際に行われた、祭事における舞楽奉納の場面を参考にしたのであろう(注15)。第五段の三韓征伐の場面は承久本「北野天神縁起絵巻」巻七の阿修羅道、「蒙古襲来絵詞」(永仁元年(1293))、「東征絵伝」(永仁六年(1298))といった合戦の図像に近しいものがあり、ここからも現存諸本の成立が十三世紀末から十四世紀であることがいえよう。この場面は八幡縁起の類でなくとも図像は描かれており、縮図が加えられたのは文明十五年(1483)だが、原本は石清水八幡宮宮司の田中道清(1169~1206)、秦清父子によって編纂された『宮寺縁事抄』(以下、縁事抄)第十「伝法院絵銘」にもある(注16)。「伝法院絵銘」に残された絵は「因位縁起」と「皇后得宝珠・新羅征伐」であり、後者は現存諸本の図像に通じるものがある〔図3〕。以上、上巻には八幡神の縁起として、応神天皇を懐妊した神功皇后の三韓征伐、それを助けた住吉明神のことが描かれる。神功皇后の三韓征伐については大善寺玉垂宮「玉垂宮縁起」(建徳元年(1370))など掛幅作品や江戸時代の土佐派の粉本にもみられる画題であり、八幡縁起というよりは三韓征伐のみ単独で成立し、継承されていたのではないかと考える。二、八幡縁起絵巻と「道鏡法師絵詞」下巻は主に八幡神の託宣利生記となる。神が示現し託宣を下す図像は「春日験記」― 145 ―― 145 ―
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