鹿島美術研究 年報第35号別冊(2018)
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や天神縁起絵巻諸本に見られるが、八幡神のように様々な姿で現れ託宣を下す図像は見受けられない(注17)。東京国立博物館「八幡大菩薩縁起絵巻」は十三世紀の作例だが、これは永享五年(1433)に足利義教によって誉田八幡宮に奉納された「誉田宗廟縁起絵巻」(以下、誉田縁起)中巻第四段、五段の内容と同様のものである。色や細かい描写に違いはあるが、詞書、構図は同じであり、それぞれ役行者、行基の誉田参籠の場面である。「誉田縁起」奥書には足利義教が誉田に参詣した際に見た縁起三巻が粗略であったため新たに図したとあり、それ以前の絵巻をどこまで踏まえているかはわからない。類似する図像が繰り返し用いられている点や、「春日験記」からの影響が多分にうかがえることからも、神の姿は加筆された箇所である可能性はある。しかし、第四、五段に限れば、かなり忠実な模写を行ったことは明らかであり、十三世紀に成立していた「誉田縁起」に八幡神の姿が描かれていた可能性はあるだろう(注18)。「誉田縁起」には、中巻第二段、下巻第一段に錫杖を手にした僧形姿、下巻第三段に十五、六歳の童の姿で示現する八幡神が描かれている。下巻(絵五段、詞書六段)(1)鵜羽根葺の産屋(2) 応神天皇の御霊、宇佐の馬城峰に石躰権現となって垂迹。仁徳天皇の勅使の前に、金色の鷹となって現れる(異時同図)。応神天皇が植えたしるしの逆松に赤白八旒の幡が降る(3) 宇佐の蓮台山寺に鍛冶の翁として現れ、大神比義の祈請に応じて三歳の小児の姿となって竹葉の上に示現(4)和気清麻呂、鹿に乗り宇佐八幡に参詣(5)行教の石清水勧請下巻第一段は神功皇后が凱旋して筑前国で産屋を建て、応神天皇を出産する場面であるが、描かれるのは鵜羽根葺きの屋根の六角堂と槐の木のみである。第二、三段は異時同図法が用いられた場面であるが、二段は一段同様、簡略にモチーフのみが描かれている〔図4〕。第四段は『続日本紀』神護景曇三年(769)にある、弓削道鏡の践祚について神意を問うため、称徳天皇が和気清麻呂を宇佐宮に遣わす場面である。「道鏡絵詞」下巻と共通する段であるが、内容は大きく異なる。出光本は足を切られた清麻呂が虚船に― 146 ―― 146 ―

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