乗せられて豊前国和摩の浜に流れ着き、そこに鹿が迎えに来て宇佐宮へ清麻呂を乗せて行く。祈請に応じた八幡神の声が御殿より響き、五色の蛇が出て来て足を元のように治した。これ以降六年に一度であった勅使の派遣を三年に一度に改めたという話となっている。絵は鹿に乗った清麻呂が宇佐宮に向っているところである〔図5〕。一方「道鏡絵詞」では、清麻呂に託宣する八幡神は御殿の上に五、六丈の五色の光となって現れる。その後、足の筋を切られた清麻呂は伊予国に流され、そこで宇佐宮の方を向いて八幡神に助けを求めると託宣があり、迎えの人が来る。清麻呂が立ち上がると足が治っているので、宇佐宮へ向かったのである。道鏡が下野に流罪になったこと、清麻呂の復位とその後天皇即位の際は清麻呂を宇佐への勅使としたこと、称徳天皇以降女帝が絶えたことを述べている。絵があったとされるのは、勅使に清麻呂が選ばれ道鏡に脅される場面、八幡神が清麻呂に託宣をする場面、道鏡の怒りを買って筋を切られて流された清麻呂が八幡神に救済される場面である。蓮華王院宝蔵であったと記されるが、このような絵巻は現存作品には見当たらず、八幡縁起絵巻現存諸本とも通じるところを見出すことは難しい。このような絵巻が後白河院の周辺で作られることがあったであろうか。絵巻制作を考える上で、院は八幡神に対してどのような信仰姿勢であったか触れておきたい。院の時代、すでに八幡神は国家鎮護の神としての地位を確立し、石清水八幡宮は国家第二の宗廟であった。院の石清水八幡宮への参詣は認められる。現存するのは巻一の断簡と巻二、『口伝集』巻一の断簡、巻十のみであるが、院が編纂した『梁塵秘抄』にも、院の信仰は顕れていると言えよう。巻二、四句神歌には日吉山王、熊野、八幡が多く歌われ、御子神信仰もうかがえる。また『口伝集』巻十には石清水八幡宮参籠の際に若宮の夢告があったことが記され(注19)、『梁塵秘抄』の八幡はすべて石清水八幡宮を指している。院にとっての八幡信仰の対象は石清水八幡宮であったことがわかる。『口伝集』には院近臣である信西の息子であり、自身も近臣として信西の死後も院の仏事を取り仕切った澄憲の表白集『転法輪鈔』が引用されていることが指摘されるが、院に影響を与えたであろう近臣らは八幡神をどのように捉えていたのだろうか。『転法輪鈔』によると八幡神は本朝人皇第十六代、すなわち応神天皇であり、宗廟神道第二の尊神である(注20)。八幡神が応神天皇であり、本地は阿弥陀如来、八幡宮を「宗廟」であると位置付けたのが大江匡房であると、吉原浩人氏によって指摘される(注21)。信西の父、藤原実兼は匡房の後継としてその知識を受け継いでおり、信西や息子らにもそれは受け継がれたとみてよいだろう。澄憲『言泉集』には開成皇― 147 ―― 147 ―
元のページ ../index.html#157