鹿島美術研究 年報第35号別冊(2018)
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子が八幡神の布施によって大般若経を書写したことが記されており、これは『宝物集』にも記されている(注22)。『宝物集』は『口伝集』にも名がみえる平康頼の編纂である。ほかに三韓征伐のこと、道鏡践祚事件、宇佐宮で法華経を講読した伝教大師に八幡神が紫の衣を布施したことが記されている。称徳天皇と道鏡のことは非常に簡略に書かれており、このことから逆に、既存知識であるからこそ簡略に書かれたのではないかと指摘したい。また三韓征伐の記述に「皇后ひそかに楫取りをめしてはらみ給ひぬ。その子いまの広田の明神なり」とある。広田社は神功皇后が新羅から帰還する際に、託宣に従い天照大神の荒魂を祀った所である。同様の記載が『縁事抄』巻一末の広田社の項にあり、住吉を梶取とするのは管見の限り『縁事抄』のみである。『宝物集』はこのあと「こまかには日本紀にいへり」と続く。ここから、院の周辺には後に石清水宮司によって『縁事抄』に編纂されるような話が浸透していたことがうかがえる。『宝物集』の記載や、信西が『日本書紀』を所持してその注釈書『日本紀鈔』を編んだことから、院の周辺では歴史研究もなされており、その一環で「彦火々出見尊絵巻」や「道鏡絵詞」が制作された可能性はあるのではないか。おわりに八幡神、神功皇后、住吉明神の取り合わせは、すでに『続日本紀』天平九年(737)対新羅神として伊勢神宮、大神社と並んで筑紫の住吉、八幡、香椎宮に奉幣が行われているところにみられる。八幡縁起絵巻の現存諸本は、異国調伏の物語として、正史としても受容されていた神功皇后の三韓征伐譚に、中世皇后と夫婦神としてみられた住吉明神と、御子神としての応神天皇=八幡神の縁起を合わせたものである。それが元寇によって対新羅の気運が高まったことから盛んに制作され、説教や唱導によって広められたのであろう。「彦火々出見尊絵巻」は保立道久氏によって、兄の弟への臣従儀礼や隼人の朝廷への服属儀礼が描かれていることが指摘され(注23)、以降図像や制作の背景が考察される(注24)。「道鏡絵詞」にも、『続日本紀』の絵画化というだけでない、意味や背景があるのかもしれない。宝蔵絵巻の中には、信西が院を諫めるために作らせた「長恨歌絵巻」もあり、院に対するメッセージを伝えるために制作されたこともあるだろう。「道鏡絵詞」は、出家者でありながら天皇に取り立てられ、政治的に登りつめた道鏡が、八幡神の神意に怯えた清麻呂に裏切られ、失墜した物語にも取れる。同じく黒衣の宰相であった信西が、平治の乱でその権威と命を失ったことを思い起こさせる― 148 ―― 148 ―

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