注⑴ 蓮華王院宝蔵の可能性が指摘される作品についての参考文献は、竹居明男「寺院の宝蔵(経蔵)と院政期の文化」(『日本古代仏教の文化史』吉川弘文館、1998年)、田島公「中世天皇家の文庫・宝蔵の変遷─蔵書目録の紹介と収蔵品の行方─」(『禁裏・公家文庫研究』第2輯、思文閣出版、2003年)、加須屋誠「総論 病草紙」(『病草紙』中央公論美術出版、2017年)ほか。⑵ 紙幅の都合上、この詳細は別稿で論じる。⑶ 宝蔵絵巻からの図像継承についての参考文献は、中野玄三『六道絵の研究』(淡交社、1990年)、佐野みどり「絵巻にみる風俗表現の意味と機能」(『秋山光和博士古稀記念美術史論文集』便利堂、1991年)、加藤悦子「「春日権現験記絵巻」研究」(『美術史』130、美術史学会、1991年)、鷹巣純「禅林寺本十界図の図像をめぐる小考察」(『美学美術史』9、名古屋大学文学部美学美術史研究室、1991年)ほか。⑷ 黒川真道編『黒川真頼全集 巻二 訂正増補考古画譜 巻九』、国書刊行会、1990年。⑸ 近藤瓶城編『改訂史籍集覧』12冊、臨川書店、1984年。塙保己一編『続群書類従』第32輯上、続群書類従完成会、1926年。高瀬承厳「道鏡法師絵詞について」(『国文学踏査』1、宝文館、1931年)。⑾ 甲類では国文学研究資料館蔵(文正元年(1466))恒石八幡宮蔵(文明十年(1478))ほか⑿ 前掲注⑽ 金「『八幡縁起絵巻』─八幡大菩薩御縁起と足利義教奉納縁起─」。⒀ 高山寺典籍文書綜合調査団編『明恵上人資料第一』東京大学出版、1971年。⒁ 『紫式部日記』寛弘五年(1008)十月十六日条に、行幸のために藤原道長が龍頭鷁首の船を新造した事がみえ、この時は鳳輦が用いられ、船を漕ぎながら演奏する「船楽」が行われたとある。藤田美術館「紫式部日記絵巻」(十三世紀)に、道長がこの船を検分する場面が描かれている。⑹ 中野玄三氏は「信貴山縁起絵巻」のような構成であったことを指摘される(「八幡縁起の展開」⑺ 新間水緒『神仏説話と説話集の研究』清文堂出版、2008年。筒井大祐「八幡縁起絵巻と『八幡⑻ 拙稿「八幡縁起絵巻諸本の所在とその相違点」(『美術史論集』15、神戸大学美術史研究会、⑼ 宮次男「八幡大菩薩御縁起と八幡宮縁起」上・中・下、附載一・二(『美術研究』333、335、⑽ 現存作品からも元寇以降の成立であると考えられる。中野玄三氏は、縁起絵の完成は『北野天神縁起』正嘉本(正嘉二年(1258))、及び弘安本(弘安元年(1278))以降であるとされ(「社寺縁起絵」『月刊文化財』97、1971年、13~23頁)、金光哲氏も甲類全体の成立は『八幡愚童訓』甲の成立(1308~18)以降とされる(「『八幡縁起絵巻』─八幡大菩薩御縁起と足利義教奉納縁起─」『東アジア研究』18、1997年、17~34頁)。⒂ 福岡・八幡古表神社では四年に一度の放生会で、傀儡子による細男舞と神相撲が船上で行われる。古表社は養老三年(719)隼人征伐に参戦し、天平十六年(744)隼人慰霊のために宇佐宮を中心に行われた放生会に、和間の海上で人形による細男を奉納したことが起こりである。今には十分であると思う。『新修日本絵巻物全集』30、角川書店、1980年、66~71頁)。宮寺巡拝記』」(『京都語文』19、2012年、245~262頁)。2015年、137~154頁)。336、339、340、1985~87年)。― 149 ―― 149 ―
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