鹿島美術研究 年報第35号別冊(2018)
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輪を施したものがある。これらは装飾効果に加え、脆弱な陶磁器の口縁を守り、砂目の残る畳付きによって卓面を傷つけないためのものであった。一方、やや遡るが、唐の咸通15年(874)に埋納された法門寺塔地宮(陝西省扶風)出土宝物のなかに、越窯の碗に平脱で団花文を施したものが含まれていた。これらは皇帝下賜の品という。平脱とは、漆面に金銀の薄板を文様の形に切り抜いて接着し、さらに漆を塗って研ぎ出す漆器の装飾方法である。その越窯を擁した呉越国の第2代王銭元瓘の墓(天福7年/942葬)から出土した青磁蟠龍文壺(浙江省博物館)には、浮彫り風に表した龍文に貼金の跡も確認されている。続く北宋期には、定窯において金銀装飾をより主体的に施した「金花定碗」が生まれた。代表作の東京国立博物館所蔵「柿釉金銀彩牡丹文碗」〔図1〕の主文様は金で、銀は覆輪のように口縁に配されるのみで具象文には使用されない。金銀の多くは剥落しているが、接着剤である有機物の痕跡が文様の形のまま残っており、装飾はまず文様の形に接着剤を置き、その上から箔をのせたものであった。表面は失透しざらついており、金銀の定着を当初から想定して素地が制作されたことは注目すべき点である。類例はMOA美術館や大和文華館はじめ日本や韓国にも数点知られるが、東博所蔵品のなかに高麗古墓出土と伝わるものがあり、高麗と北宋の上級層における贈答品であったと考えられている(注1)。このように器を金銀で装飾した背景の一つには、当時の仏教の隆盛と荘厳の影響もあるだろう。しかしいずれも非実用的であり、陶磁器ならではの表現を獲得するには至っていない。金銀を施す箇所のみならず、漆を全面に被せたり、化粧や刻文を施したりして、あえて表面に凹凸をつくるのは、古来玉膚のようなつやのある釉を追求してきた中国陶磁の歴史に反する展開である。ちなみに宋時代には、力強く魅力的な器を焼いた地方の民窯でも、金彩を施した例をみることができる。象徴的な例として、名茶の産地福建の建窯や吉州窯(江西省吉安)の黒釉碗が挙げられる。とくに、建窯の小型碗(建盞)には、焼成時の化学変化(窯変)によって釉中に金属的な輝きを放つ斑文やなだれが生じる特徴がある。このような器が受け入れられた背景には、当時の漆工芸にみられる美的志向とも相関性があると推測される。ただし、窯変による文様(曜変、油滴など)は偶然に由るところが大きい。よって、金は黒釉の地に現れる文様を補い引き立てるため、簡易に加えられたものであろう。筆で表された文様は例えば吉祥を示す語であったり、武夷山を描いたりと具体的である。メッ― 154 ―― 154 ―

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