鹿島美術研究 年報第35号別冊(2018)
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セージ性のあるこれらの受容先は日本でもあったのだろうか。しかしながら金彩は茶筅を用いればすぐに剝がれ、実用的ではない。黒釉茶碗は喫茶の変化とともに南宋末には衰退した。ちなみに、日本では『君台観左右帳記』に「白ちやわん(ちゃわんとは広くやきものの意)に、はくにて色々紋ををしたるあり」とあり、箔の文様が施された白磁の存在が足利将軍家で知られていたらしい。室町時代の15、16世紀当時、前述の北宋「金花定碗」があったとは考えにくく、現在のところどのようなものか明らかではない。ただし日本人の唐物への志向において、金銀彩の器の存在はあらためて留意すべき問題である。2)明時代の様相陶磁器が白く美しい素地を得て、器面に顔料で絵付けが行われるようになると、最終段階の装飾として金彩が登場する。早いものは宋時代、13世紀頃に華北の磁州窯で焼かれた「宋赤絵」(紅緑彩)に例が知られるが、それはわずかに添える程度であった。金彩が本領を発揮するのは、中国の世界的繁栄とともに景徳鎮窯が最盛期を迎えた明の嘉靖年間(1522~66)頃のことである。その代表格には、青花磁器の碗の外側を赤、藍、緑、透明釉(白地となる)で覆い、金彩のみで牡丹唐草を主体的に表したもの〔図2〕がある。他に、赤を主体とした文様に金彩で花唐草、蓮弁、瓔珞などを副次的に足した類もある。技法には箔を貼り付けたものと泥で描いたものとがあるとみられ、どちらも接着剤、展色剤を用いて賦彩して焼き付けたものと推測される。これらは大型貯蔵器から飲食器、文房具に至るまで実用に供した器である。現存作例の多くは当初と推測される金彩をよく留めており、安定した生産状況がうかがわれる。そして、大航海時代の流れに乗って国外へも運ばれ、イギリスやドイツ、オーストリアなどヨーロッパの皇帝貴族のあいだで人気を集めるが、最も豊富に伝世しているのは日本という。日本では、これらを中国の高級織物「金襴」にたとえて「金襴手」と総称する。平成17年(2005)、赤地碗と緑地皿の金襴手の破片が国内で初めて大分市府内にある大友氏の菩提寺、万寿寺の遺構から出土したことが報告された(注2)。数寄者として名を馳せた戦国武将大友宗麟(1530~87)が手にしたものであろう。ただし、16世紀当時の日本で金襴手を手にすることができたのは、大友氏のように独自の交易ルート― 155 ―― 155 ―

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