鹿島美術研究 年報第35号別冊(2018)
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を確保した一部の権力者に限られていたと推測される。日本で金襴手の存在が広く知られるようになるのは、元禄7年(1694)刊『万宝全書』の記述(注3)や肥前有田における伊万里金襴手の登場から考えて、17世紀末~18世紀初頭の頃であろう。しかし、肥前磁器に嘉靖金襴手の直接的な模倣はみられない。嘉靖金襴手はどう受容され、日本に長く伝えられるに至ったのか。この問題は日本における金銀彩の発生と展開にも関わり、検討の余地がある。3)清時代の様相その後、明末の混乱による景徳鎮窯の停滞を経て、清の康熙(在位1661~1722)、雍正(在位1722~35)、乾隆(在位1735~95)の3代の皇帝のもとで官窯の陶磁器生産が佳境に入る。金彩は、典雅な作風で評価の高い康煕年間の五彩に採用された。控えめな配置ではあるが、表現法は線や面、霞のように緻密なものまで豊かにみられる。一方、康熙末年には粉彩技法が完成し、色調豊かで立体的な絵付けが実現する。明代より遥かに多色の地に金彩が施されたが、それは華を添える装飾の一つに過ぎず、あくまで主役は粉彩である。また、この時代の象徴的作例として青銅や金銀、漆、七宝など他の材質、技法による器をそっくり写したものがある。もはや中国陶磁の終末期的姿ともいえ、当然ながら金は金属の膚を再現する顔料として使用されている。一方、民窯では、康熙23年(1684)に遷界令が解除され、公的な対外輸出が再開されると、金彩が採用される。前述のとおり、元禄年間より伊万里金襴手が人気を博し、豪華絢爛な大型品がヨーロッパへ輸出された。「オールド・ジャパン」と呼ばれたそれらと相応して、景徳鎮でも金彩の華やかな製品が生産されたのである。上絵付けの技術は成熟を極め、金は文様の種類や配置場所に限らず、全面的に用いられる傾向がある。対日本に限ってみると、清朝陶磁の受容(入口)は中国と直接往来があった長崎や沖縄(琉球王国)に限られた。とくに首里城内や中城御殿址では本土ではみることのできない良質の官窯器が数多く出土するが、そのなかに金彩が施された白磁片が確認されている〔図3〕(注4)。さらに、琉球王国に関連する例として「金琺瑯」がある。三井家旧蔵品(永青文庫)、近衛家伝来品(陽明文庫)、バウアー・コレクションに知られる外面を金で覆った異例の白磁蓋付高足杯である。近衛家伝来品は、享保13年(1728)4月の茶会に菓子器として用いられたことが山科道安『槐記』に知られる。姻戚関係にある近衛家と― 156 ―― 156 ―

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