2)肥前磁器─銀の多用一方、17世紀初頭に肥前有田では本格的な硬質白磁が完成し、中国青花を模した染付に続き、1640年代には色絵の生産が行われる。注目すべき点は、50年代後半に至り、まさに仁清と時期を同じくして、金銀彩を積極的に施した伊万里焼が生産されたことである。先行研究では、肥前磁器におけるこの初期金銀彩について、発掘成果より生産の中心は有田の東端、楠木谷窯とみられ、酒井田家に伝わる『赤絵始りの「覚」』に「金銀焼付候儀、某付初申候…」とあることから、この文書が作成された17世紀中頃には制作が行われていたことが裏付けられ、絵付けに初代柿右衛門が関わった可能性が指摘されている(注7)。さらに、オランダ東インド会社の1659年の輸出記録(長崎出島文書)には金銀彩が施された磁器に関する記述があり、ドレスデン国立美術館にも類例が伝わることからそれらは輸出向けの製品であったと想定される(注8)。主な製品には赤絵具もしくは染付と金銀彩を併用したもの〔図11〕や、瑠璃地や柿地に金銀彩を施したもの〔図10〕などがある。雲龍、波兎、富士、楼閣山水、花唐草、人物などモチーフやその配置は様々で、金銀の賦彩もごくわずかに添える程度のものから、主体的に施すものまで一定していない。器種も徳利や変形皿、香炉のような小品から大型の蓋物、壺など多様である。これらは定型化、様式化がみられない初期的様相をそれぞれに呈しており、数も限られる。ここで特筆すべき点は、銀を主体的に用いた作例がみられることである〔図12〕。中国磁器どころか仁清の色絵でも主役になることがなかった銀彩がメインとなる作例がみられることは見逃すことができない。その筆遣いは基本的に肥痩に乏しい単純な「線」中心の表現をとる。こうした一群がみられるのは1670年代までに止まり、一旦姿を消す。この頃、明末の動乱で生産を落した中国の景徳鎮窯に、日本の肥前磁器がその市場をとって代わる。60~80年代にかけてヨーロッパへ向けた製品の量産体制が整うと、新たに人気を博すのは華やかな柿右衛門様式や芙蓉手であり、その後18世紀初頭には前述のとおり金襴手が一世を風靡したが、そこでは銀彩は採用されなかった。一方、三川内(平戸)や亀山、瀬古など長崎を中心とする諸窯では、18~19世紀にかけてわずかながら金銀彩を施した染付磁器の生産が行われたことが知られる。いずれも典雅な作行きであり、前述の有田の展開とは関わりなく、時代を映した独自の美的志向があったと思われる。同時期の藩窯の展開や、清朝陶磁が流入した長崎という― 159 ―― 159 ―
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