鹿島美術研究 年報第35号別冊(2018)
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注⑴類例の東京国立博物館所蔵「白磁金彩雲鶴唐草文碗」は紫外線蛍光撮影の結果、焼き付けていなかったことが指摘された。今井敦「白磁金彩雲鶴唐草文碗といわゆる金花の定碗について」『MUSEUM』484号、1991年7月、東京国立博物館。特殊な土地柄を考察に加えながら、今後の課題としたい。終わりに日本陶磁における金銀彩は、江戸時代後期から明治初頭にかけて、焼締め陶や仁清以来の色絵陶器、青花、五彩、呉州手、交趾などの中国陶磁、高麗茶碗などの写しを得意とし、やきもの制作を自家薬籠中のものとした永樂保全(1795~1854)、和全(1823~96)親子に至り、一つの完成をみる。とくに両者は嘉靖金襴手に倣った金彩表現に長けたことが知られるが、銀彩も和全に白釉陶の素地に刷毛で銀を薄く引いたり〔図13〕、布を置いて独特の表情を生み出したり〔図14〕する一方で、中国由来の天目形の磁器碗の内側に銀を一面に施した作例があり、素地に合わせてその賦彩法を効果的に使い分けている。かつて仁清には施釉に工夫をし、金銀の厚薄を違えた表現がみられたが、ここにおいて素地の特性と質感を活かしつつ、銀彩の表情をより豊かにみせる日本陶磁独特の手法が確立した。それは、硬質白磁を至上とする中国ほか他地域の製陶にはみられないもので、さまざまなやきものが開花した日本特有の展開といえる。ただし、遡って元禄12年(1699)、鳴滝に窯を開いた乾山(尾形深省 1663~1743)の器に、焼締めの素地に施した作例が存在する(注9)。そこにみとめられる寂びた趣は、金属的な輝きを求めたそれまでの金銀彩と全く異なる。乾山は決して多用しなかったが、素材を問わず泥や箔、砂子など金銀を効果的に採用し、恒久的に変化しない金に対して、変化を前提した銀にも美的価値を置き、またそれら金属の輝きを抑える表現を好んだ琳派ならではといえる(注10)。そして、この美意識は今日日本陶磁の一装飾技法として定着した銀彩のあり方を方向づけるものでもあった。本研究では、銀彩が施された陶磁器について調査し、雑駁ながらその位置づけと美術史学的意義を整理することを試みた。今後、詳細な作品調査を続けるとともに、各時代の美術作品との共通点、相違点を比較検討しながら、銀に対する日本の美意識の展開と特質を解明したい。⑵『中世大友再発見フォーラムⅡ 府内のまち 宗麟の栄華』大分市教育委員会文化財課、2006年。― 160 ―― 160 ―

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