鹿島美術研究 年報第35号別冊(2018)
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② 山名文夫におけるイラストレーション研究研 究 者:群馬県立館林美術館 学芸員  野 澤 広 紀Ⅰ はじめに山名文夫(1897-1980)の洗練された女性像によるイラストレーションは、数々の商品や企業のイメージを決定付けてきた。本稿は、大正期のプラトン社時代の仕事から、昭和初期の資生堂入社後の作品までを俯瞰して、山名が描いたモティーフを考察するものである。詩人であった山名は(注1)、作品を裏側から支えるような言説も多く残している。自由に描かれたような印象がある作品には、熟考されたデザイン理論が反映されていることを紐解いていきたい。明治30年(1897)に広島県に生まれた山名は、父の郷里である和歌山県で小・中学時代を過ごす。叙情的な美人像で人気を博していた竹久夢二に憧れを抱く少年だった(注2)。また、雑誌『白樺』に掲載されていた世紀末の画家オーブリー・ヴィンセント・ビアズリーの作品にも影響を受けている(注3)。中学卒業後は、洋画家赤松麟作の主宰する画塾で油絵を学び、関西を拠点に活動を始める。大正12年(1923)、大阪の化粧品会社中山太陽堂(現 株式会社クラブコスメチックス)の子会社である出版社、プラトン社に入社し、その看板雑誌の表紙絵や扉絵、挿画を手がけた。その後、昭和4年(1929)、東京の化粧品会社資生堂の意匠部に入社すると、新聞・雑誌広告のイラストレーションや化粧品のパッケージデザインに力を発揮した。一方、デザイン集団である日本工房に昭和9年(1934)から約2年間所属し、対外宣伝誌『NIPPON』の編集、タイポグラフィ、広告を手がけた。戦後も精力的に活動を続け、83歳で亡くなるまで、現役のデザイナーとして活躍した。山名については、山名文夫研究会によってその実像に迫る研究が進められ、資生堂企業文化部発行の『研究紀要おいでるみん』(注4)に成果がまとめられてきた。また、西村美香氏らにより、山名がプラトン社時代に西洋のアール・デコの感覚溢れるファッション雑誌の影響を受けたことが詳らかにされ(注5)、平成27年(2015)、群馬県立館林美術館において山名とアール・デコとの接点を探る展覧会が開催された(注6)。本稿はその研究の流れを受けるものである。Ⅱ イラストレーションとそのモティーフ─『女性のカット』を中心に─プラトン社は、中山太陽堂が大正11年(1922)に設立した出版社である。中山太陽堂の創業者であり、東洋の化粧品王と称される中山太一は、化粧品を「文化生活上の― 8 ―― 8 ―

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