⑰1880年代におけるクロード・モネと美術市場について研 究 者:神戸大学大学院 人文学研究科 博士後期 亀 田 晃 輔1.先行研究と問題の所在印象派の画家クロード・モネ(1840-1926年)は、近代の前衛画家としては珍しく生前に成功をおさめた人物の一人である。成功の要因は、1891年の個展で発表した《積みわら》以降の「連作」に求められるだろう。それは、変化する時間や天候の一瞬の表情を複数の画布に描きこみ、それらを観者の眼に一挙に示すという「連作」の手法そのものの美的性質に起因することはもちろん大きいのだが、モネが画商や美術批評家たちと結託して、作品の価値を上昇させていったいわゆる「画商=批評家システム」(注1)の作用も見逃すべきではないだろう。モネはいかにして画家としての地位を獲得したのか、という問いを対象とした研究は多くはない。この問いには、美術批評や、さらに画商が開催した展覧会への出品過程や作品販売の動向の分析が不可欠である。美術批評研究は古くから存在するものの、画商や展覧会を対象とする研究自体は近年になってやっと盛んになってきた(注2)。画商が有するアーカイヴの閲覧の困難さ、あるいはアーカイヴの欠如がこうした研究を妨げてきたのだが、近年の研究成果は当該分野の更なる進展を促すであろう。こうした観点の下、本報告書では1880年代におけるモネと美術市場、とりわけ展覧会について考察する。1880年代のモネは不首尾に終わる印象派展や、競売場オテル・ドゥルオでの売り立て失敗によって岐路に立たされたことから、1879年の第四回展以降、印象派展への不参加を決め(但し1882年の第七回展を除く)、新たな活路を開くため個展の開催や外部の展覧会へ参加し始める。つまり1880年代の展覧会は、モネが印象派という集団ではなく個人の肩書で作品を販売していかなければならなかったため、自覚的に「画商=批評家システム」を利用した「場」として考えられるのである。1880、83、88年の個展、85-87年にかけての国際絵画展、さらには89年のモネ・ロダン合同展の開催など、モネは精力的に作品発表を展開する。またヨーロッパ各国やアメリカの美術市場への参入も忘れてはならない。モネと展覧会を対象とした数少ない先行研究には、80年と83年の個展の分析が存在するため(注3)、本報告書では、84年以降のモネの画業を対象とし、中でも未だ不明点の多いジョルジュ・プティ画廊における国際絵画展を中心に分析したい。― 177 ―― 177 ―
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