2.ジョルジュ・プティ画廊と国際絵画展1883年のデュラン=リュエル画廊におけるモネの個展は成功をおさめたが、これ以降、1891年開催の《積みわら》個展まで、モネはデュラン=リュエルと組んで展覧会をフランスで開催していない。事実上、印象派と最も関係の深いこの画商がフランスにおける展覧会事業を制限したのは、1882年のユニオン・ジェネラル銀行の暴落が起因となった彼自身の経営不調のためである。デュラン=リュエルが経営不調の突破口として見出したのが、アメリカの美術界へと介入することであった。実際に画商は1886年にニューヨークで展覧会を開催し、美術市場を開拓することに成功する(注4)。その間モネは、フランスにおいて新たな画廊との提携が余儀なくされ、ジョルジュ・プティ画廊で開催されていた国際絵画展へと出品し始めるのである。ジョルジュ・プティ画廊は、デュラン=リュエル画廊のライバルとしてその名を歴史に刻むが、現在まで存続することなく、1933年に解体する。またアーカイヴの所在が知られておらず、そのためこの画廊を対象としたまとまった研究は今のところ存在しない。以下では基本的事項に限られるが、ジョルジュ・プティ画廊と国際絵画展の足跡を確認したい。ドラクロワやバルビゾン派を主に扱っていた画商であるフランシス・プティの息子として1856年に生まれたジョルジュは、1877年の父の死後、事業を受け継ぎ経営を軌道に乗せる。1881年には、多くの展示会場や印刷業や梱包業、さらに版画や写真製版のためのアトリエを有するゴドー・ド・モロワ通り12番地に居を構える。セーズ通り8番地を入場口としたギャラリーは、300m2もの広さをほこり、天窓採光を設置し、その入口の長い廊下の奥には堂々たる階段が設けられ、床は赤い絨毯で覆われるなど豪華絢爛でブルジョワ的な様相を呈していた。1882年2月、「フランス水彩画家協会」の展覧会の開催と共にそのギャラリーとしての使命を開始する(注5)。同年5月からは外国人画家も招聘した国際絵画展(彫刻家が出品した場合は国際絵画、彫刻展となり、以下これらを国際展と記す)が企画され、87年まで毎年開催される(90年から再開)。その顔ぶれは、アドルフ・メンツェル、マックス・リーバーマンやジュゼッペ・デ・ニッティスなどのドイツやイタリア、さらにイギリス、スペイン、ロシア、スウェーデンの画家や、フランス人ではアルベール・ベナール、アンリ・ジェルベックス、ジャン=シャルル・カザンなど複数の画家たちであり、総じて、自然主義など完全にアカデミックな画風ではない画家たちが主に出品している(注6)。モネは1885年から国際展に参加し始め、86、87年まで出品し、86年からはルノワール、さらに87年はホイッスラー、モリゾ、ピサロが出品し、印象派展のような雰囲気を帯― 178 ―― 178 ―
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