びる。ではモネはいかなる経緯でこの展覧会に参加するようになったのだろうか。モネとプティとの関係は、1878年に開かれたエルネスト・オシュデなどの売り立てに、プティが鑑定人として関わり、実際モネの作品を3点購入したことから構築されたと思われる。またこの頃から文通の形跡も認められる(注7)。実際、モネは1882年の国際展を見に行き、興味を抱いていたようだ(注8)。他方、国際展の反響は大きく、例えば有力な美術誌『ガゼット・デ・ボザール』の記者の一人であるアルフレッド・ド・ロスタロは、保守的なサロンとは異なり、プティ画廊の展覧会では、ヨーロッパ各国の様々な画家による、今現在の力強い芸術作品を見ることができると称賛する(注9)。また同誌の補遺にあたる芸術欄では、国際展の目的や規約が報じられている。「年一度の国際絵画展は、毎年パリで5月に、純粋に芸術的性格を有する国際展を開催する目的で創設され、あらゆる国々の卓越した定められた数の画家による作品を集結させる。その数は12人と制定され、その内3人はフランス人とし、芸術アカデミー会員とする」(注10)。さらに、国際的性格を強調するためにこの展覧会が、各国識者の名誉会員による委員会の庇護下に置かれていることも報じられ、そのリストも掲載されている。実際に、1883年の国際展に招集された芸術アカデミー会員のフランス人は、アレクサンドル・カバネル、ロベール=フルーリー、エルネスト・エベールといった顔ぶれだが、ベルギー人アルフレッド・スティーブンス、イタリア人ジュゼッペ・デ・ニッティス、スペイン人ライムンド・デ・マドラゾなど折衷主義的な画風を持つ画家や、ホイッスラーも招聘されている。以上のことからプティ画廊における国際展は、多くのパトロンに支えられながら、様々な画風を持つ各国の著名な画家を招集することで、初期の開催年から話題を呼んだと判断してよいだろう。ただし上述の規約に関しては、1884年の国際展からすでに人数制限、芸術アカデミー会員の招集などが遵守されておらず、決して厳しく定められたものではなかった。一方、画家の選定については、国際展の各回に委員会が設けられ、そこでの選定投票があったようだ(注11)。おそらく1882年の不況の影響やギャラリーが設立されて間のないことから、話題性を持ちかつ作品販売の見込める画家を選出したいプティの意向も反映されたのであろう。したがって1885年の国際展(5月15日開催)にモネが招待されたのは、上述のようにデュラン=リュエル以外の画廊をモネが探していたことと、幾度かモネの作品を買い取ったことのあるプティの評価と委員会の投票とによって、両者の利害が一致したことがその要因であると思われる。しかしながら、1886年の批評でルイ・ド・フーコーが、プティ画廊に出品する大多― 179 ―― 179 ―
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