鹿島美術研究 年報第35号別冊(2018)
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数の画家が、サロンなど他の場所にも展示している事実を指摘しながら、「このプティ画廊の国際展は商業的催しである」(注12)と非難するように、もともと同じ美意識を持たない画家たちがこの展覧会に参加するのは金銭的な目的だ、と批評家から簡単に見透かされるような場に、モネは妥協的な態度を持ってしか臨まなかったのだろうか。実際、モネの美学を代弁する共闘者がこの時期一人存在していた。作家、批評家のオクターヴ・ミルボーである。モネとミルボーの関係性を探ると、彼らの国際展に対するある種の戦略が垣間見える。3.仲介者としてのオクターヴ・ミルボー1884年11月17日、デュラン=リュエルの紹介により、モネとミルボーの交友が始まる。当時のミルボーは、風刺的週刊誌『レ・グリマス』を発刊し、また『ル・ゴーロワ』や『ル・フィガロ』といった有力紙に劇評などを掲載するなど名をあげつつある文筆家であった(注13)。そのようなミルボーは、『ラ・フランス』紙に「美術ノート」と題する一連の美術批評を執筆することとなる。彼の美術批評の目的は、大衆の眼を開かせ、彼らが同時代の画家たちが有する新しい考えや個性、様式を感じ、理解し、味わうことができるようにすることであり、既存のアカデミー美術への批判をポレミックに示す、いわば「美の闘争」を展開することにあった。そこでミルボーは、同時代の画家ピュヴィ・ド・シャヴァンヌ、ドガ、モネ、ルノワールを取り上げるため、その取材もかねて、モネと引き合わせてもらうようデュラン=リュエルに依頼したのである。11月21日に記事となったモネ論では、「現代の風景画家の中で、クロード・モネ以上に完璧で、感動的で様々な印象を与える画家を私は知らない」(注14)とミルボーはモネを激賞する。それに対するモネの反応は、「これらの記事には、いくつか当を得ないこともあるが、おそらくそっと我々の擁護を取らせておくほうがよいだろう、こうした記事が妨げとなるとは私は思わない」とピサロに述べ(注15)、さらに返礼としてミルボーに自らの作品を送る。そしてその感謝の返信に「サロンの時に、私は本当の戦いを始めるだろう。私の芸術的信条を、そして傑作を用いてその信条を支持する、貴方のような人々への称賛を主張する機会を私が逃すようなことはないと信じてほしい」(注16)とミルボーは記し、ここに典型的な画家と批評家の共闘関係が生まれる。この共闘関係があったからこそ、正当な評価を受けられると考えたモネは、ブルジョワ的な国際展に出品することを決めたのだろう。事実ミルボーは、この展覧会へ― 180 ―― 180 ―

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