鹿島美術研究 年報第35号別冊(2018)
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の批評文の約半分をモネに捧げ、讃嘆する(注17)。そしてピサロの書簡から分かるように、実際モネはこの展覧会で成功をおさめる(注18)。他方プティは、必ずしも全面的なモネの協力者ではなかった。モネのピサロへの書簡にこのようにある。「次の(国際)展覧会で私を大変期待していると彼〔プティ〕は私に言った。〔…〕しかし一つ条件がある。それは、彼のところで展示するなら、他のところに参加しないというものだ。私にとって、貴方も理解しているように、無視すべきではない利益の問題がある。だから彼のところで展示することを約束した、それに他になす術はなかった」(注19)。その結果、プティの展覧会に出品するにあたってモネはデュラン=リュエルに次の条件を示さなければならなくなる。「反目したままだと、彼〔プティ〕は貴方の作品を展示したがらないのはもっともなことだ。〔…〕プティ氏に貴方の絵画を展示することを強いるのは容認しがたかった」(注20)。フランスでの活動を制限せざるを得ないデュラン=リュエルの状況を知っていたプティは、この競合相手との差をつけるべく、モネに次の国際展に専念するようにさせ、さらにデュラン=リュエル所有のモネの作品を出品させないよう巧みに誘導したと考えられる。デュラン=リュエルの利益も考慮していたモネは、この選択を身を削る思いでしたに違いない。事実、1886年の国際展(6月15日開催)にモネはデュラン=リュエル所有の作品を出品しなかった〔図1〕。こうしたプティからの条件に制約を受けたモネはミルボーと共に、これに対するささやかな抵抗とも取れる行動をする。ルノワールとロダンを国際展に呼ぶのである。ミルボーからロダンへの書簡には次のようにある。「国際展は15日に開かれる。それはつい昨日の晩に決まったことだ。〔…〕またルノワールの出品許可も得た。〔…〕貴方が展示したいもののタイトルをカタログに載せるために私に送ってもらう必要がある」(注21)。つまりミルボーは国際展の企画を担う人物の一人であり、ルノワールの参加に奔走し、カタログの編集まで任されていたことがこの書簡から読み取れる。ミルボーの1886年の国際展に対する批評では、ロダン、ルノワール、モネを全面的に取り上げ、まるでこの三人が国際展の主役であるかのように扱う(注22)。その中で、1880年に国家買い上げとなったロダンの《青銅時代》や、1879年のサロンで評判を呼んだルノワールの《シャルパンティエ夫人と子供たち》について執筆したのは、モネと知名度のあるこの二人の芸術家を同列に扱うことが狙いであったのだろう。そしてミルボーは批評の最後を「彼らと共にこそ、正真正銘で唯一の現代芸術の運動がある」と締めくくる(注23)。13点作品を展示したモネの成果は大成功と言えるもので、二つの作品を除き全て売― 181 ―― 181 ―

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