鹿島美術研究 年報第35号別冊(2018)
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注⑴ 19世紀後半のフランスでは、教育や展示等の美術行政の全てを牽引してきた美術アカデミーに却され、一つの作品が1,000-1,500フランの価値がつき、最終的に15,100フランの収益があったと記録されている(注24)。批評における共闘者としての顔に加え、国際展を組織し、モネとプティとの間を取り持つ仲介者としての顔をも有するようになったミルボー。その強力な後ろ盾に支えられたモネは、当時もっとも影響力があり、印象派の糾弾者であり続けたアルベール・ヴォルフから、留保はありつつも評価を得る。「私はここでモネ氏への非難をしたいのではないことに注目していただきたい。というのもこのエトルタの情景は本当に魅力的だからだ」(注25)。こうして勢いを得たモネは、1887年5月8日開催の国際展に委員の一人として臨む。また委員にはロダンとルノワールもその名を連ねている。今回の国際展はモネ、ルノワール、ピサロ、シスレー、モリゾ、ホイッスラーが出品したことから、今や瓦解した印象派展の様相を帯びたものであった。かつての同志が一堂に会したこの状況は、デュラン=リュエルの不在による出展機会の欠如によることもあるが、すでに国際展で成功し、委員も務めるモネの働きかけによって生まれたに違いない。モネの権勢を振るう様は、テオ・ファン・ゴッホが経営するブッソ・ヴァラドン商会が所有する作品の出品を、プティに認めさせたことからも分かる(注26)。ミルボーの批評は二回にわたって掲載され、主にホイッスラー、モネ、ルノワール、ロダン、ピサロへの称賛に筆が取られる(注27)。この展覧会に、モネは連作《ベル=イル島》、ルノワールはアングル様式の《大水浴図》、ピサロは点描主義の《りんご採り》といった新しい試みの作品を展示した。モネが再び印象派の画家たちを集結させたのは、おそらく話題を呼ぶプティ画廊の国際展において、新たな試みの作品を通じて、虐げられてきた印象主義が変革したことを提示することが目的ではなかったのではないだろうか。それに呼応するかのようにミルボーは批評の末尾でこう明記する。「何という喜びだろうか、我々にとって、我々の称賛と熱狂をアカデミーの目前で叫ぶことは」(注28)。以上のように、モネの成功は、国際展への出品やミルボーとの共闘と不可分であることを述べてきた。その後、モネがミルボーの協力の下、1889年にロダンと共に展覧会を開催するのもプティ画廊であった。デュラン=リュエル不在の中、モネのみならず印象派の画家たちにとってもプティとミルボーの存在は大きなものであったのだ。― 182 ―― 182 ―

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