凧市で小野庄司氏は凧を売り始め、この神社から委託を受けたのだろうか?小野隆史氏によれば、庄司氏は「紙の神」と呼ばれる神の夢を見たそうである。その挿話については、日本の凧の会の一人の創設者であり、凧に関するいくつかの本を執筆した斎藤忠夫氏は1986年に(注2)、また前述の学芸員の中野守久氏も言及している(注3)。ある夜、庄司氏は予言の夢を見たそうである。その夢の中で、神は王子と呼ばれる丘にある神殿を捜すように言って、多くの人々がその丘で凧を揚げている風景を庄司氏に見せた。庄司氏は田舎から到着したばかりで、東京の地理を知らなかったので、最初、東京の西側の八王子に丘と神社を探しに行ってしまった。夢で見た風景がなく、正しい場所にいないことに気づき、周りの人々に尋ねて今度は東京の北区の王子に行った。王子稲荷神社を見つけた時、そここそ夢の中で見た風景であることに気づいた。当時、神社で売っていた凧守りを制作していたのは林商店だったが、当時は凧の黄金時代で、凧の需要は高く、庄司氏は神社の境内に出店して自分の凧を売り始めた。2月の凧市で、最初の年に約500枚の凧を販売し、2年目には千枚以上の凧を販売し、数年後には約1万枚の凧を販売したそうである(注4)。戦後、林商店は王子稲荷神社の凧守りの制作を続けることができなくなり、庄司氏が新しい凧守りの制作者になるように依頼があった(注5)。庄司氏は委託を引き受け、神社の凧守りを制作するとともに、自分の凧の販売も続けた。幸いなことに、小野庄凧店は第2次世界大戦中の火災を免れた。孫の3代目の隆史氏は、祖父の庄司氏が作った50組以上の版木を保管していた。福島県では、庄司氏の家族は鰹節の生産に携わっていた。彼は、鰹節を作っていない時には、竹の技術を学んでいた。こうして、東京に到着した時、庄司氏は手作業の技術を身につけており、刃先がカーブした鰹節を作るための専用のナイフも持っていた。東京の人々はこのようなナイフに慣れていなかったが、このナイフのおかげで、木を簡単に彫刻し、きわめて早く版木を作ることが可能になった。孝巳氏は、子供のころ、父親が夜中に版木を制作していたことを覚えている。最初、凧の制作は副業だったので、新しい版木を作るために、午後5時に本業を終えて版木を作り始めた。そして、孝巳氏が早朝起きた時には、新しい版木の使用準備がすでに整っていた(注6)。中野守久氏が論文で述べたように、小野庄司氏が製作した最初の火伏凧は、すべてが奴凧ではなく、角凧もあった。小野庄凧店が所蔵する版木のコレクションの中には、王子稲荷神社を想起させる角凧の絵柄の版木がある。凧愛好者でコレクターの俵有作氏と写真家の薗部澄氏が1970年に出版した『日本の凧』の中に、その凧の写真〔図1〕があり、その凧に押してある印は、王子稲荷神社のものであることを確認できる。― 187 ―― 187 ―
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