鹿島美術研究 年報第35号別冊(2018)
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の版木に使用していた〔図4〕。したがって、小塚菊太郎氏によって1960年代に作られた凧は〔図5〕、明治時代か大正時代に作られた版木を用いているが、このモチーフが使われている(注8)。小塚菊太郎氏は、以前は王子稲荷神社の凧守りの制作を担当していた飯田橋にある林商店を所有していた家族の一員であり、小野庄司氏が前任者からインスピレーションを得たと考えられる。装束稲荷神社の火伏凧(袖凧、そして角凧)装束稲荷神社の社務所で販売されている凧〔図6〕は、現在の角凧に近い形をしていて、着物の襟のみが長方形の上部にはみ出している。骨組みは、4本の竹でできている。1本は中央に縦に、1本は上に横に、もう2本は対角線上に配置している。王子稲荷神社の社務所が販売している火伏凧と同じく、家で吊り下げるための凧なので、糸が付けられていない。この火伏凧とそのデザインは、小野孝巳氏(2代目)が考案した物である。最初から機械的に印刷された凧の絵柄は、赤い鳥居の後ろに黒い着物の袖を表している。鳥居の下に、神社の象徴であるキツネが座っている。キツネは、神社の紋(左)と米の玉と炎(右)が描かれた黒い着物を着ている。鳥居の頂上には同じ紋、米の玉と炎がもう一度描かれている。上のほうには、「装束稲荷大明神」と「厄除火防御守護」の二つ朱印が一般的な模様の上に押してある。小野庄凧店には最初の委託を受けた時の領収書が残っておらず、装束稲荷神社の社務所がこの火伏凧を販売し始めた年を正確に知ることができないが、彼らによると、それは1970年代であったとのことである。そして、凧の愛好者たちが出版した本から、この火伏凧の作成年を推定できる。俵有作氏の『日本の凧』(1970年)には、この凧の写真は掲載されていないが、二匹のキツネが描かれた角凧と火伏奴凧を収めている。広井力氏の『凧 KITES』(1973年)にも、火伏奴凧の写真はあるが、装束稲荷神社の火伏角凧はない。そして、斎藤忠夫氏の『凧づくり ―日本の凧のすべて―』(1975年)には、装束稲荷神社の火伏凧が初めて掲載されたようである。したがって、この凧の作成年は、1970年代の前半、おそらく1974年頃になる。また、1970年代から凧の絵柄の模様は変わっていないが、紙の切り方が変わり、凧の形が変わった。以前は、鳥居の両側に残った白紙が切り取られていたので、最初は、袖凧(注9)であった。しかし、今日では、もはや袖の下に相当する部分の紙を切り取ることがなく、角凧になっている。― 189 ―― 189 ―

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