鹿島美術研究 年報第35号別冊(2018)
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3.東京・王子の凧市と火伏凧の歴史的痕跡王子稲荷神社の凧市や火伏凧の起源をたどることは容易ではない。第二次世界大戦中、王子の周辺は1945年4月13日と8月10日の2回の空襲による火災によって深刻な被害を受け、その地域の資料の多くは破壊された。王子稲荷神社には、凧市と火伏凧に関連した記録がなく、北区中央図書館に収蔵されている地方新聞もすべて戦後のものである。こういうわけで、戦前の王子についての情報を集めるためには、地元の人々への調査、浮世絵に見られる風景、国内外の出版物へと目を向ける必要がある。王子駅と王子稲荷神社の間にあるお菓子を売る石鍋商店の石鍋秀子氏(大正時代生まれ)の口頭での証言によると(注10)、王子稲荷神社の凧市の歴史は江戸時代から続いている。このように地元の方々は信じておられるが、これを確認するための資料を見つけることができないだろうか?王子稲荷神社の凧市についての一番古い文書は1898年2月のものである。山田吟圃氏が執筆した記事で、子ども誌『小國民』に掲載された(注11)。この記事には、毎年、初午の日に、王子村の稲荷神社で凧市があるとの記述がある。少年のためのこのイベントで、神社の境内には驚異的な数の凧が並ぶ。「凧には、十数枚つぎの大凧の、神功皇后、坂田金時など、五彩美くしく描けるあり、僅に手の平まどの烏凧あり、角の達磨凧は、鳥形の奴凧と相重り、龍の字日の丸と相隣る。」。山田氏は、凧の自数の多さを強調するために、「境内處として凧ならざるは無く、特に社殿の周圍等は、立錐の地も餘さずして凧を立てかけたれば、恰も凧の中に建てたる社の如し」と書いている。記事はまた、その日、凧市が非常に混雑していたことを伝え、このイベントが「夏山の雲の如く、甘きに就く蟻の如く」人々を引き寄せたとの記述がある。そして、凧の買い手と同じく、もちろん非常に多くの売り手がいた。この記事は子供の聴衆のために書かれたものであるため、凧市での子供の存在を強調しているかもしれない。貧しい子供も、お金持ちの子供も、この凧市に参加し、老人の手を握っている子供もいれば、若い男性の肩の上に乗っている子供もいる。しかし、参加する人は子供だけではなく、「學生あり、職人あり、婆も娘も子守もあり」とある。さらに重要なことに、誰もが凧を買うことができるように、首に財布をかけていた。最も豊かな人々は、畳のように大きな凧を買って、背中にしょって持ち帰り、最も貧しい人々は小さな凧を買った。これらの人々の多くがこの凧市を心待ちにしていて、ついに凧を手に入れることができてとても幸せである、と記述される。結論として、著者は、凧揚げの健康上の利点についても言及し、全国各地でそのような凧市の発展を望んでいた。この記事には、群衆と様々な凧の形を描いた図〔図7〕が掲載されており、凧市の― 190 ―― 190 ―

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