ネの和紙人形(注16)にインスピレーションを得て、19世紀後半に神社の魅力を復活させるために、2月の初午の日に凧市の開催が始まったという仮説を立てたいと思う。火伏凧の登場した年も特定するのが難しい。『小國民』の記事では言及されてないが、小野庄司氏が凧市に来た時にはすでに存在していたので、神社は1900年から1920年代半ばの間に、販売を始めたと仮定する。火伏凧の生産を始めた理由も確かではない。この問題について論じた田中正明氏は、2月の初午の日には、火災警戒を促す伝統的な式典がいくつか開催されていると指摘した。王子稲荷神社に祀られている神と火を守る護符凧との関係を見つけるのは難しいと強調した。だから、「稲荷を単に衣・食・住の守護神と見なし、火災はひとたび起こると、これらいずれのものに対しても大きな犠牲を強いる」という仮説を提案した(注17)。現時点では、われわれは仮説にとどまっているのである。結論しよう。今日では、王子稲荷神社と装束稲荷神社が主催する凧市の主な魅力は、販売する2つの火伏凧であるとしても、凧市と火伏凧は同時に現れなかったようである。おそらく凧市は19世紀後半に始まり、王子稲荷神社の火伏凧は20世紀初頭に販売が開始され、装束稲荷神社の火伏凧が制作されたのは1974年頃である。本稿で提案する解釈は以下の通りである。王子稲荷神社の人気が低下し、交通が整ってきた時期に、王子稲荷神社が、毎年の初午祭りに多くの人々を誘致するために、人気の高い正月の玩具である凧の市を開催したのである。火伏凧の生産もおそらく同じ戦略で、毎年人々が神社に来るようにする目的で始まったのである。したがって、凧市や火伏凧が創造されたことにより、小野庄凧店は図らずも今日まで3世代にわたって存続できた。王子稲荷神社は、毎年新しい凧守りを購入するイベントを開催することで、20世紀後半から凧文化が衰退したにもかかわらず、ある凧工房の存続を可能にしたのである。参考文献広井力『凧 KITES』毎日新聞社、1973年歌川広重『名所江戸百景』1856-58年中野守久「「火防せの凧」の製作について」『北区飛鳥山博物館研究報告』第2号北区飛鳥山博物館、2000年3月、p. 90-96新坂和男『日本の凧』角川書店、1978年斎藤忠夫『凧づくり ─日本の凧のすべて─』保育社、1975年斎藤忠夫『江戸凧絵史』グラフィック社、1980年斎藤忠夫『凧の民俗誌 種類・由来・慣習』未来社、1986年― 192 ―― 192 ―
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