⑲谷文晁を中心とした関東南画(文人画)における中国絵画学習の研究─清代福建様式の影響を中心に─研 究 者:名古屋市博物館 学芸員 横 尾 拓 真はじめに18世紀後半から19世紀前半、江戸において活躍した谷たに文ぶん晁ちょう(1763~1841)は、関東南画(文人画)の領袖あるいは巨匠と言われることが多い。ただしその山水画様式は、中国の画論で説かれた「南なん北ぼく二に宗しゅう論ろん」の南北のうち、北ほく宗しゅう画がの系譜に位置づけられる。文晁は、関西の南画家とは異なり、文人画論にて正統的なものとして扱われた南なん宗しゅう画がの様式を熱心に追い求めることは無かった。文晁自身は広く古画を学習することの重要性を述べ、実際に幅広い作品を学んでいたことが現存する粉本群から窺えるが(注1)、当代の田た能の村むら竹ちく田でん(1777~1835)は「倪・黄の諸法を悦ばず。」(『山中人饒舌』)(注2)と、南宗画に分類される名家を志向しない実態を伝えている。それでは具体的にどのような作品を学び、自身の作画に活かしたのであろうか。『集古十種』に収録され、現在では南宋の画院画家、李り唐とうの作品とされる(伝)呉道子「山水図」(高桐院蔵)(注3)、あるいは明末の杭州で活躍した藍らん瑛えいの作品など(注4)、一部の中国絵画の影響については既に先行研究が説くところである。しかし、文晁の多岐にわたる作品は、山水画に限っても、両者以外に多様な影響源が想定される。本研究では、一門の作品も含め類例が多く、文晁山水画の一類型と思われる「青緑山水図(蜀桟道図)」(東京富士美術館蔵、以下「青緑山水図」)を取り上げ、その淵源を清代の福建地方で活動した職業画家、馬ば元げん欽きんの作品であると想定し、その関係性を考察していく。その上で、画論を出典とした恣意的な用語による漠然とした理解を一歩進め、具体的な作品の比較を通じて、文晁山水画の特徴と歴史的位置づけを考えていきたい。最後に、文晁をはじめとした関東南画における、清代福建様式の影響を概観し、その影響力を提起するつもりである。一、谷文晁「青緑山水図」(東京富士美術館蔵)と趙珣(款)「蜀桟道図」(橋本コレクション)「青緑山水図」〔図1〕(注5)は、印章「文政壬午文晁画印」(朱文長方印)より文政五年(1822)に制作されたと判明する、文晁後半生の作品である。文政年間は「烏からす文ぶん晁ちょう」と呼ばれる粗放な墨画山水の制作が中心となっていたが、本作は巨大な画面を、謹直な線描、丹念な賦彩によって丁寧に埋めており、何か特別な機会に注文制作され― 196 ―― 196 ―
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