鹿島美術研究 年報第35号別冊(2018)
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たことを窺わせる優品である。左右の岩壁に挟まれた渓谷を描いており、山間の桟道、左上に垣間見える関所風の楼門から、所謂「蜀しょく桟さん道どう」を描いたものと判断される。渓流に渡された木橋には、驢馬と圉人が小さく描かれ、周囲の自然の雄大さが強調されている。さて興味深いことに、本作と近似する図様を持つ中国絵画が、橋本コレクションに所蔵されている。趙ちょう珣じゅんの落款を持つ「蜀桟道図」〔図2〕がそれである。趙ちょう珣じゅんは、福建の莆田出身、名は之璧、字は枝斯(後に十五)、明末清初に活躍した文人画家である。ただし、吉田晴紀氏の解説(注6)によれば、落款は後入れで、17世紀の中頃、古風な福建様式の作品であるという。趙珣の作風は、概ね墨戯的要素のある文人画風が想定でき(注7)、謹直な線描で象られた本作は、やはり趙珣自身の作品では無さそうである。しかしながら、貫ぬき名な海かい屋おく(1778~1863)による天保十三年(1842)の箱書きがあり(注8)、その時点では趙珣画として受容されていたことが確認できる。「青緑山水図」と趙珣(款)「蜀桟道図」を比較すると、図様の近似は明らかであり、文晁がこの趙珣(款)「蜀桟道図」を原画として、「青緑山水図」の制作を行ったことが想像されるのである。二、福建の画家、馬元欽による「蜀桟道図」ところが、「青緑山水図」の原画の作者については、異なる画家の名前が指摘されている。「青緑山水図」と同じ図様を持つ谷文晁「蜀桟道図」双幅(個人蔵)の箱書きには、「馬元欽蜀桟道図 写山楼文晁翁画」と記されており(注9)、馬ば元げん欽きんなる画家の「蜀桟道図」を下敷きにしたものと考えられているのだ。ただし、趙珣(款)「蜀桟道図」と馬元欽は、無関係というわけでも無さそうである。馬ば元げん欽きんは、清代の福建地方で活動した画家で、長楽県出身、字は典欽、三峯と号した。水墨山水や白描人物を善くしたという(注10)。その名前は、『閩中書画姓氏録』、『福建画人伝』に見受けられるものの、現在、本国では無名の画家である。一方、文晁が活躍した時期の日本では、名の知られた画家であった。例えば、文晁と交流のあった渡わた辺なべ玄げん対たい(1749~1822)の息子である内うち田だ陶とう丘きゅう(1761~1808)の編著『林りん麓ろく娯ご観かん』(文化二年〈1805〉序)には、馬元欽の作品から写した落款が収録されており、その周辺に馬元欽画が存在していたことが分かる。清せい宮みや秀ひで堅かた(1809~79)『雲烟所見略伝』(安政六年〈1859〉刊)附録「谷文晁」の項には、「好摸明三山馬元欽」とあり、時代や画号に齟齬があるものの、文晁自身が馬元欽画から学んだことが伝えられる。さらに文晁一門の粉本群には、馬元欽「関羽張飛図」(沖縄県立博物館・美術館蔵)〔図3〕― 197 ―― 197 ―

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