の模本(個人蔵)〔図4〕があることが指摘されており(注11)、一門内でその図様が共有されていたと推測できる。ここでは馬元欽の描いた山水画について見ておきたい。「桃源問津図」(橋本コレクション)八幅対〔図5〕は、「甲午孟冬」の年紀がある離合山水形式の作品である。先述した『林麓娯観』には、「雍正元年三峰馬元欽敬写」の落款が写し取られており、馬元欽を18世紀前半に活躍した画家と想定すると、康熙五十三年(1714)制作の作品であると考えることができる。ごつごつと角張った岩山が特徴的で、大画面に広がる荒涼とした景色が見どころとなる作品である。ここで振り返ると、趙珣(款)「蜀桟道図」は、17世紀中頃の古風な福建様式を持つと指摘されていた。角張った台形状の山々、水墨による下塗りと細かな線皴によって凹凸が表現された岩塊など、趙珣(款)「蜀桟道図」〔図6〕は、馬元欽「桃源問津図」〔図7〕と様式上近い関係にあることが理解できる。双方とも本紙の絹は粗く、同時代、同様式を得意とした職業画家による製品と考えることができるのではないだろうか。文晁の「青緑山水図」のモデルとなったのは、趙珣(款)「蜀桟道図」そのものではないが、馬元欽の落款を持つ同図様の作品であったと想定したい。三、薩摩藩島津家所蔵の馬元欽「桟道図」馬元欽の名前を伴う蜀桟道の絵については、江戸の儒学者、松まつ崎ざき慊こう堂どう(1771~1844)の日記『慊こう堂どう日にち暦れき』文政九年(1826)十一月二日の条に、興味深い記述が見られる。慊堂は、馬元欽の筆による「放白蝶図」について述べた後に続けて、「元欽の桟道図は既に焼け、なお摸本を存す(薩藩)」と記し(注12)、馬元欽の筆になる蜀桟道の絵が薩摩藩にあったことを証言している。もちろん、慊堂の記す「桟道図」が、「青緑山水図」の原画である確証は無いが、以下にその可能性を考えてみたい。薩摩藩にあった「桟道図」については、おそらく琉球を通じてもたらされたものと思われる。琉球を媒介とした福建地方の絵画の流入については、近この衛え家いえ煕ひろ(1667~1736)が愛した孫そん億おくの花鳥画の例が知られるが(注13)、この種の文物移動は薩摩藩と琉球との主従関係を前提として継続的に行われていたはずである。例えば、杉本欣久氏は、渡辺崋山が所蔵した福建の画家、王おう任にん治ちによる肖像画「為い霖りん道どう霈は像」の考察において、同じく琉球を媒介とした日中文化交流の豊かさを想定されている(注14)。先に挙げた馬元欽「関羽張飛図」(沖縄県立博物館・美術館蔵)〔図3〕も、薩摩藩在番奉行との交渉を担当した大やまと和横よこ目め、阿あ嘉か直ちょく識しきの所蔵品であったものが、やがて薩摩に召し上げられ、近代に入って再び沖縄に還された旨が伝えられている(注15)。― 198 ―― 198 ―
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