文晁一門によって模本〔図4〕が制作されたのは、もちろん薩摩藩周辺に作品があった時であろう。薩摩藩が所蔵する「桟道図」も模本の存在が証言されており、同時期に文晁本人によって写されたのではないだろうか。日中交流の窓口として機能していた薩摩藩が収蔵する新来の中国絵画。先に見た「桃源問津図」のような障壁画性、すなわち大観的構成と装飾的効果を持つ大幅。蜀桟道という既知の主題。これが馬元欽「桟道図」の日本における性格であったと思われる。文晁の絵画制作については、各藩江戸屋敷の調度品として注文を受けたこと、注文作は武家階級から望まれた北宗画の画風と画題であったことが指摘されるが(注16)、そうした背景の中、選択され写し継がれるのに相応しい作品が、馬元欽「桟道図」だったと想像できよう。後述するが、「青緑山水図」と同図様の作品が弟子たちによって描き継がれており、「青緑山水図」も調度品として人気の山水画であったことが窺え、やはり薩摩藩にあった馬元欽「桟道図」がその原画であったと思われるのである。四、谷文晁の作画の特徴それでは、馬元欽「桟道図」を原本に、文晁はどのような表現を取捨選択しながら自身の作品を作りあげていったのだろうか。ここでは、薩摩藩にあった馬元欽「桟道図」と趙珣(款)「蜀桟道図」〔図2〕を近い関係にあるものと想定し、「青緑山水図」〔図1〕との表現を比較することで、文晁画の特徴を見て行きたい。「青緑山水図」では、趙珣(款)「蜀桟道図」をもとに比較すると、概ね簡略化した表現を窺うことができる。山容の形態はやや柔和なものに改められ、線皴は数を減らし、几帳面なものから乱雑なタッチに代えられている。岩肌に見られる下塗りも、藍や薄い顔料を塗り重ねており、趙珣(款)「蜀桟道図」のような、それぞれが分離して色面を構成する傾向はない。なお「青緑山水図」には、南蘋派の皴法も指摘されるが(注17)、濃淡を調節しながら軽妙に打たれる線皴、輪郭線付近に施される淡い点苔は、確かに南蘋派の表現を想起させる。原本の図様や構成を活かしつつ、細部の表現については自身の趣向に従って様々な要素を加味し、変更を加えているのである。このような「青緑山水図」にみる表現の特徴、改変の過程に、文晁という画家の創意を読み取ることができよう。この過程は、次章で見る一門の類例と比較するとより整ったものであり、「南北合法」「南北一致」などと総称される文晁の作画姿勢の具体的様相を見ることができるのである。― 199 ―― 199 ―
元のページ ../index.html#209