14年(1925)に銀座資生堂ギャラリーにて個展を開催し、昭和2年(1927)に村山知義らとともに日本童画家協会を設立するなど、童画という言葉を世に広めた武井武雄は、遊戯的な観点からカルタやトランプに興味を示した。武井が手がけた雑誌『コドモノクニ』の表紙は、帽子を被った子供たちが駆け回る賑やかな画面であるが、周囲にはハートやダイヤなどの記号が装飾的に配されている〔図17〕。幾何学的な平面構成や赤と黒の色彩の組み合わせは、村山知義からの影響を示唆していて興味深いが、読者層である子供たちに親和性のあるトランプのモティーフを積極的に用いていたことが窺える。トランプやその記号は当時の作家たちに、同時代性を帯びた魅力あるモティーフとして好まれていたのではないだろうか。Ⅲ デザイン理論の深化─資生堂における小売店向け機関誌を中心に─山名は、昭和37年(1962)刊行の『広告のレイアウト』で、デザイン理論や制作における実践的なテクニックを紹介している。また、昭和51年(1976)刊行の『体験的デザイン史』では、自身の回想を中心にデザインに対する考え方も綴っている。一般的には、日本工房での経験が、山名のデザイン理論に大きく影響を与えたとされ、その代表である名取洋之助の「電撃的」な仕事ぶりを目の当たりにした山名は、編集レイアウトについて多くの学びを得たと述べている(注14)。しかし今回は、資生堂意匠部が制作に関わっていた資生堂の小売店向け機関誌に着目した。資生堂は、明治5年(1872)、東京銀座に洋風調剤薬局として創業した。商品の高品質、高品位を求めるだけでなく、付加価値的なイメージを大切にし、長い歴史を築き上げてきた。「新しい価値の発見と創造」(注15)という理念は、現在まで遺伝子のように継承されている。同社の本格的な宣伝活動を行い、価値創造の一翼を担った資生堂意匠部は、大正5年(1916)、デザインの重要性を強く認識していた初代社長の福原信三によって創設された。資生堂は機関誌に関して、消費者向けに『資生堂月報』や『資生堂グラフ』、『花椿』などを発行する一方、社内や小売店向けに、販売の現場に響くような実践的な内容を盛り込んだ『チェインストアー』(注16)などを発行していた。『チェインストアー』は昭和2年(1927)から昭和6年(1931)まで発行され、その流れを汲み『チエインストア研究』が昭和10年(1935)から昭和13年(1938)まで発行された(注17)。山名が資生堂に在籍していた時期と重なっている(注18)。『チエインストア研究』で山名が担当した記事を見ると、「(中略)レイアウトに於ては、この視るということ、つまり視線の移行、誘導を最も重視します。置き場所、― 11 ―― 11 ―
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