五、関東南画(文人画)における福建画壇の影響最後に、関東南画(文人画)における、清代福建画壇の影響を確認しておきたい。まず馬元欽「桟道図」を元にしたと考えられる「青緑山水図」タイプの作例であるが、こちらは一門の中で大きな広がりを見せている。渡辺崋山「蜀桟道図」(個人蔵)〔図8〕は、近接視した独自の視点を採用しているが、「青緑山水図」に類似することは明らかであり(注18)、馬元欽画に遡るものであることも早くから指摘されている(注19)。さらに、平ひら井い顕けん斎さい(1802~56)、鈴すず木き鵞が湖こ(1816~70)による作例〔図9〕〔図10〕も、既に馬元欽画に基づくものとして紹介されている(注20)。ここに、文晁の弟、島しま田だ元げん旦たんの作例〔図11〕も加えることができよう(注21)。その他の類例も枚挙に暇がなく、文晁一門の典型作として流布した様子を窺うことができる。馬元欽画に見るような様式の影響は、「青緑山水図」タイプ以外の作例にも想定するができる。とりわけ、元旦の装飾性豊かな山水画は、兄である文晁以上にその影響が色濃い。「秋景山水図」(鳥取県立博物館蔵)〔図12〕、「雪中山水図」(個人蔵)(注22)は、同じ図様からなる作品であるが、角張った台形状の山々、櫛比する細皴に、馬元欽の画風を彷彿とさせるものがある。おそらく馬元欽画と同様の様式を持つ福建画人の作品を原画としているのではないだろうか。馬元欽とほぼ同時期(康煕末~雍正年間)に活動した洪こう基きも、関東南画への影響という点では重要な人物である。洪基は福州の画人、字は用弼、蓮坡と号した。やはり現在は無名の画家であるが、江戸時代の日本では、数点の作例が受容されていた。東京国立博物館に所蔵される木挽町狩野家による模本群には、洪基による「梅林山水図(林和靖図)」〔図14〕を見出すことができ、その原画は、現在宮内庁三の丸尚蔵館に所蔵される「帰去来図」(康煕五十三年〈1714〉)〔図13〕と対幅であった可能性が提起されている(注23)。この「帰去来図」の図様が、崋山の弟子、福ふく田だ半はん香こう(1804~64)によって取り入れられていることも後に指摘された(注24)。一方、「梅林山水」の図様が、渡辺崋山に取り入れられていることを鑑みると〔図15〕、洪基画の受容は、崋山を経て文晁にまで遡るかも知れない。馬元欽や洪基といった清代福建画家の山水画を見ると、文人画論では「北宗画」と分類され、忌むべきものとして排斥された華北系山水の系譜にあることが理解できる(注25)。なかでも明代蘇州の職業画家たちが手がけた李唐の様式を踏襲する南宋院体画風(注26)が一層形式化した印象を持つものである。加えて「閩習」と呼ばれた、粗放な墨法が特徴の地方様式(注27)が基層にあるかも知れない。福建という周縁地域において、職業画家たちが描き継いだこの種の作品が、地理的特性によって日本に― 200 ―― 200 ―
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