鹿島美術研究 年報第35号別冊(2018)
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注⑴世田谷区郷土資料館 編集・発行『特別展 文晁とその門人による模写絵─大場家所蔵絵画資料を中心に』1993年。板倉聖哲「幕末期における東アジア絵画コレクションの史的位置─谷文晁の視点から」『美術史論叢』28、2012年。同「谷文晁、古画への眼差し─東アジア絵画を中心に」『生誕250年 谷文晁』サントリー美術館、2013年。もたらされ、文晁一門の受容するところとなったわけである。障壁画性を有する構成や物語性を持つ主題は、文晁の主たる顧客である武家層にも歓迎される要素であった。本研究で取り上げた具体的作例以外にも、谷文晁および一門の作品には、部分的に以上の様式の影響が窺える作品が多い。もっぱら「北宗画」的と言われる関東南画の山水画様式は、清代の福建地方で描かれた院派系の作品が淵源のひとつになったと言えよう。これは、同じ福建出身の画家でも、明末清初に活躍した文人画家を尊崇し、その作品を写している関西の南画家たちとは異なる現象である。福建地方という日本とは縁の深い地域で生まれた文物が、受容する側の志向によって多様な影響を及ぼしている例を確認することができるのである。おわりに「青緑山水図」タイプの作例は、幕末を過ぎ、近代に入っても確認することができる。例えば、福井に生まれた内うつみ海吉きち堂どう(1850~1925)が描く「桟道高秋図」(福井県立美術館蔵)〔図16〕がその一例である。吉堂がこの図様をどういう経緯で受容したかは不明だが、吉堂の跋がある風外本高『模写帖』(名古屋市博物館蔵)の一葉に同図様が含まれており〔図17〕、三河や大坂で活動した文人画僧、風ふう外がい本ほん高こう(1779~1847)の作例から影響を受けたのかも知れない。一方、この図様が文晁一門を中心に描き継がれ、広く流布していたことは吉堂も意識していたはずである。吉堂はこの伝統的図様を描くにあたって、旅客や山間の桟道などモティーフを付加させて主題を強調しながら、文晁以上に柔和かつ平明な画面を作り上げた。作品は、第三回絵画共進会(明治三十年)に出品され、一等褒状を受賞、文晁以来の南画の伝統を継承する優品として評価されたことが想像できよう。ところが、時代は大きく変わり始めていた。本作には皮肉交じりの酷評が寄せられており(注28)、粉本に基づく守旧的な作例として見なされたことが理解できる。明治維新以降も命脈を保ってきた関東南画の諸様式は、急激に時代遅れのものとして糾弾を受けるようになった。長らく描き継がれてきた馬元欽「桟道図」に由来する作品の歴史は、おそらく吉堂の作品を最後の輝きとして幕を下ろしたのである。― 201 ―― 201 ―

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