鹿島美術研究 年報第35号別冊(2018)
217/455

⑳1860年代におけるエドゥアール・マネの受容研究─サロン出品作とその批評─研 究 者:立教大学 昭和女子大学 非常勤講師  井 口   俊1.はじめに本研究課題は、19世紀後半のパリで活躍した画家エドゥアール・マネ(Édouard Manet, 1832-1883)の1860年代の画業に注目し、その同時代受容にまつわる諸問題を考察することを目的としている。マネは1861年に初入選して以来、死の前年の1882年まで、公式の展覧会(サロン)での成功にこだわり、挑戦を続けていた。現在、マネを論じる際にはしばしば、「スキャンダルの画家」という形容が用いられるが、そうしたイメージの形成には1860年代に発表された二枚の裸婦像が深く関わっている。それぞれ1863年の「落選者のサロン」と1865年のサロンに展示された《草上の昼食》と《オランピア》が、主題、造形の両側面において、同時代の鑑賞者たちの反発を引き起こしたことが多くの先行研究の中で強調されることで、マネと「スキャンダル」は不可分のものとなった。しかしながら、画家の評価は一作品のみで決定されるものでなく、前後に発表された作品との共通点や差異を比較検討し、その全体像を視野に収めなければ、作品個々の位置づけを議論することは出来ない。《草上の昼食》《オランピア》に関しては既に、受容の問題が論じられてきたが(注1)、それ以外の作品の受容研究はほとんどなされていない。そうした状況を踏まえ、本研究では1860年代のサロンに発表された全ての作品を対象とし、サロン批評の読解を手掛かりにマネの同時代受容の再考を行った。研究の遂行にあたっては、フランス国立図書館を中心に現地調査を行い、現時点で可能な限り全ての新聞、雑誌を閲覧し、マネとその作品に関する批評を収集した(注2)。本稿ではその調査に基づき、《草上の昼食》《オランピア》の発表年の間にありながらも、これまではあまり重要視されてこなかった、1864 年のサロンにおけるマネの同時代受容、さらには画家の出品意図を論じてゆく。2.批判の矛先─聖性を剥奪されたキリスト像前述の通り、マネのサロン初入選は1861年のことで、二度目の入選にあたる1864年時点における画家としてのキャリアはまだ十分なものでなかった。にもかかわらず、マネの知名度は決して低くなかったと考えられる。なぜなら、その前年に開かれた皇― 207 ―― 207 ―

元のページ  ../index.html#217

このブックを見る