鹿島美術研究 年報第35号別冊(2018)
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ていた」(20:12)とあり、マネの表現とは必ずしも一致していない。二人の天使が身にまとうのは「白い衣」ではなく、暗赤色と橙色の衣服であり、聖書の記述とは異なっている。天使たちはどちらもキリストの上半身側に位置しており、その点においても相違が認められる。マネの友人シャルル・ボードレールは、1864年のサロン開幕前に送った書簡の中で、「槍の突きは間違いなく右側に加えられたようです。従って、サロン開幕前に傷の位置を変えに行かれなければなりません。とにかく四福音書でそのことを確認して下さい。そして、意地の悪い連中に笑いの余地を与えぬようご用心のほどを」(注14)と、宗教主題を描く際には聖書に忠実であるよう注意を促していたが、マネが作品を修正することはなかった。画面内の要素から、《死せるキリストと天使たち》が「ヨハネによる福音書」を念頭に描かれたことは疑い得ないが、画家が聖書の記述との整合性よりも、自らの絵画表現を重要視したこともまた事実であろう。ただ、本作の構図や人物配置はマネの独創でなく、スペイン人画家フランシスコ・リバルタ(Francisco Ribalta、1565-1628)の《二人の天使に支えられる死せるキリスト》〔図5〕と関係があると考えられている。リバルタの作品は1864年当時、スイス人の銀行家で美術品収集家のプルタレス伯爵(James-Alexandre de Pourtalès、1776-1855)のコレクションに収められ、パリの邸宅で公開されていた(注15)。受難を象徴する荊冠はリバルタのキリストしか付けていない一方、頭部の光輪はマネのキリストにのみ見られるなど、随所に表現上の違いはありながらも、マネが自作の基本的な構成をリバルタの作品に依拠した可能性は高い。マネとプルタレス・コレクションとの関係については、美術批評家テオフィール・トレだけが、1864年のサロン批評の中で言及している。トレは、マネの《闘牛場の出来事》と、プルタレスが所蔵し当時はディエゴ・ベラスケス作とされた、17世紀イタリア派による《死せる兵士》〔図6〕に描かれた人物の形態的な類似性に着目し、マネが「ベラスケスがとても簡潔に描いた、プルタレスのギャラリーの傑作の一点を大胆にも模倣した」(注16)ことを喝破した。この批評が発表されるや否やボードレールはトレに書簡を送り、マネは同ギャラリーを見たことがなく、そこに展示されている過去の巨匠の模作を行うこともあり得ないと反論している(注17)。だが、ボードレールは当時ブリュッセルにおり、パリのマネと書簡を交わし事実の確認をしてもいないため、その言い分を鵜呑みにすることは出来ない。例えば、1863年刊行のパリ案内書には、現在のマドレーヌ寺院そばにあるプルタレス邸は毎週水曜日に開放され、登録を行えば誰でも所蔵品を見学可能であると記されている(注18)。パリで生まれ― 210 ―― 210 ―

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