育ち、ルーヴル美術館にも足繁く通っていたマネが(注19)、その貴重な機会を逃すとは考えづらい。1864年6月5日付の美術に関する情報誌は、「次の冬に売却が予定されているプルタレスのギャラリーは6月1日まで見学可能」と、ギャラリーの閉鎖と作品が売却されることを伝えている(注20)。プルタレス伯爵は1855年に亡くなっているが、この記事からも分かるように、コレクションの公開は1864年まで継続されていた。実際の売り立ては、1865年1月から4月まで全10回に分けて行われ、絵画、彫刻だけでなく、家具や骨董品、宝飾品など、多様なジャンルの作品群が競売に掛けられた(注21)。既に指摘されているように(注22)、売り立ての絵画目録にはリバルタの《二人の天使に支えられる死せるキリスト》とベラスケスの《死せる兵士》の情報が並んで掲載されている(注23)。そのことを踏まえると、マネがプルタレス・コレクションを直接見た上で、「死」のテーマで結び付くスペイン絵画二枚を対作品として捉え、サロン出品作を構想したという議論も説得性がある(注24)。確かに、マネがプルタレス邸を訪れたことを確実に示す資料は見つかっていないが、同時代の状況を鑑みるならば、やはりマネはコレクションを実見し、その経験を作品制作に生かしていたと考えられる。それではなぜ、マネはリバルタとベラスケスから着想した作品を1864年のサロンに出品したのだろうか。1863年、絵画作品の複製図版で知られるグーピル商会が、プルタレス・コレクションの中でも選りすぐりの作品を撮影した一冊の写真集を出版した(注25)。その題名、『プルタレス・ギャラリーの想い出』が示すのは、コレクションが近い将来に失われてしまうという事実であろう。60枚の写真からなる本書は当初、12枚ずつの5分冊として出版されており、第一回配本は1862年10月に始まっていた(注26)。つまり、同年にはもうギャラリーの閉鎖が決定していたのである。美術専門誌『ガゼット・デ・ボザール』が連載を組むだけでなく(注27)、多くの新聞、雑誌が関連記事を掲載するなど〔図7〕、コレクションの公開終了はパリの美術界にとって一大事であり、マネがそのことに無関心であったと仮定するのは難しい。友人宛ての書簡より、マネが《死せるキリストと兵士たち》に着手したのは1863年の11月以降であると推定され(注28)、《闘牛場の出来事》に関しても、1863年から64年にかけての制作とみなされている(注29)。マネは、プルタレス・ギャラリーが閉鎖され、敬愛するベラスケスの作品を含むコレクションが失われてしまうことを理解した上で両作品を描き始めたに違いない。すなわち、1864年のサロンにおけるマネの出品意図は、間もなく散逸する運命にあるプルタレス・コレクションへの惜別の念を― 211 ―― 211 ―
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